ライスラーの反乱
[Wikipedia|▼Menu]

ライスラーの反乱
ジェイコブ(ヤコブ)・ライスラー像
ニューヨーク州ニューロチェル
関係者ジェイコブ・ミルボーン
場所ニューヨーク植民地
日付1689年5月31日?1691年3月21日

ライスラーの反乱(ライスラーのはんらん、Leisler's Rebellion)は、17世紀末のニューヨーク植民地で起こった事件である。ドイツアメリカ人商人であり、民兵隊の大尉であるジェイコブ・ライスラーが、植民地南部の支配を掌握して、1689年から1691年までの統治をおこなった。イングランドで起きた名誉革命と、1689年の、ニューヨークを含むニューイングランド自治領(英語版)でのボストン暴動の余波として起こったこの反乱は、王位を剥奪された国王ジェームズ2世への鬱積した不満が反映されている。

イギリス国王の権威が回復したのは、1691年、イングランド軍と新総督がニューヨークに派遣されてからだった。ライスラーは逮捕された。逮捕したのは総督と軍で、裁判を行い、大逆罪を宣告した。ライスラーは死刑に処せられたが、この反乱により、ニューヨークは激しく敵対する二大勢力に分裂した。
反乱のきっかけ詳細は「名誉革命」および「ニューイングランド自治領」を参照

1664年、イングランド軍がニューネーデルランドを制圧し、イギリス国王チャールズ2世がこの地を弟のジェームズ、当時のヨーク公に与え、望むように統治させた[1]。ジェームズはこの地をイーストジャージーとウエストジャージーに分割して、他の出資者にまかせた[2]。また、2人の廷臣に与えて、その廷臣が東西に分割したとも言われる[3]。この植民地政府は、本質的に独裁制であり、強い権限を持つ総督と評議会(council)を有したが、選挙による議会はなかった[2]アンドロスの逮捕

1685年、ジェームズは兄の後を継いで王位に就き、翌年ニューイングランド自治領を設立した。1688年5月、ジェームズはドミニオンにニューヨークと東西のジャージーを組み込んだ。自治領の総督であるサー・エドマンド・アンドロスは、この年の夏にニューヨークに到着し、自らの支配を打ち立て、イギリス海軍の大尉であったフランシス・ニコルソン副総督に就任させ、自治領の統治をさせた[4]。ニコルソンの統治は、地元の評議会からは補佐されたが、立法議会はそうでなかった。ニューヨークの住民からは「我々の昔からの特権を倒し、最も恣意的な統治をする」一連の勅選総督の候補と見られていた[5] 。ニコルソンは、入植者を「彼らは被征服民であり、それゆえ…イングランド人としての特権や権利は要求することさえできないはずだ」[5]

1688年の末に名誉革命が起き、カトリックのジェームズは退位に追い込まれ、プロテスタントウィリアム3世メアリー2世が代わって即位した[6]。アンドロスの統治は、特にマサチューセッツでかなりの不評を買っていた[7]。名誉革命のことを聞きつけるや、マサチューセッツの反アンドロス派は、この革命にかこつけて、自らの政治的利益のために暴動を起こした。1689年4月18日、ボストンに現れた暴徒は、指導者たち、自治領総督であるアンドロスや自治領の役人を逮捕した。この事件により、マサチューセッツや他のニューイングランドの植民地で暴動が段階的に起こり、急速に自治領結成前の状態に戻って行った[8]
高まる緊張自治領副総督フランシス・ニコルソン

副総督のニコルソンは、4月26日までにはボストンの暴動のことを耳にしていた。しかし彼は、暴動のことも、また、イングランドでの名誉革命のこともなんら公表するための処置は取らなかった。ニューヨークで暴動が起きる可能性があるのを恐れていたのである[9]ロングアイランドにボストンの暴動の一報が届いた時、政治家や民兵の指揮官たちはかなり強引な姿勢を取るようになり、5月半ばまでに、多くの地域から自治領の役人たちが追い出された[10]。時を同じくして、ニコルソンはフランスがイングランドに九年戦争ウィリアム王戦争)の宣戦布告をしたことを知った。これにより、ニューヨーク北部のヌーベルフランスとの境界に、フランスとインディアンの連合軍が攻撃を加える恐れが出て来た[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef