ライサンダー・スプーナー
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ライサンダー・スプーナー

誕生1808年1月19日
マサチューセッツ州アソール
死没1887年5月14日
マサチューセッツ州ボストン
国籍 アメリカ合衆国
ジャンルノンフィクション
主題政治哲学
代表作『反逆無し』、『奴隷制度の違憲性』
影響を与えたもの

マレー・ロスバード、ランディ・バーネット、フレデリック・ダグラス

ウィキポータル 文学
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ライサンダー・スプーナー(Lysander Spooner、1808年1月19日-1887年5月14日)は、19世紀アメリカ合衆国個人主義的無政府主義者政治哲学者理神論者奴隷制度廃止運動家、労働運動の支持者、法哲学者、および起業家である。アメリカ合衆国郵便局と競合するアメリカ文書郵便会社を設立したことでも知られる。この郵便会社はアメリカ合衆国政府によって事業からの撤退を強いられることになった。
概要

スプーナーは1808年1月19日、マサチューセッツ州アソールの農園で生まれ、「1887年5月14日午後1時、ボストン市マートル通り109番の小さな自室」で亡くなった。その部屋は「半世紀以上にわたってパンフレットによる戦いを続けたスプーナーが集めた書籍、原稿およびパンフレットで溢れたトランクや収納箱で一杯だった[1]。」

スプーナーは彼が自然法と呼ぶもの、すなわち「公正の科学」を提唱した。個人やその資産に対して強制力を働かせる行動は「違法」と考えられるが、人が作った法を犯すいわゆる犯罪行為は違法ではないというものであった[2]
初期の経歴
法曹界での経歴

スプーナーの活動家としての経歴は弁護士として始まったが、それ自体がマサチューセッツ州の法に違背するものだった[3]。著名な弁護士かつ政治家だったジョン・デイビスやチャールズ・アレンの下に付いて法律を学んだが、スプーナー自身はカレッジに入学したことが無かった[4]。州法に拠れば、カレッジを卒業した者であれば3年間弁護士について勉強することが求められていたが、卒業していない者は5年間の修業を求められていた[4]

スプーナーは法律関係の庇護者の薦めで、わずか3年間の修業後にウースターでの法律実務を始めた。これは公然と権威に楯突く行動だった[4]。スプーナーの見解では、カレッジを卒業した者が3年間の修業という特権を認められるのは、貧乏人に対する州が後押しする差別であり、またその要求にあう人に収入を独占させるものだということだった。「金持ちが貧乏人と競合するときに法によって保護されるべきというような恐ろしい原則を、これまで誰も直接的に提唱しようとしたことは無かった」と論じていた[4]。1836年、州議会はこのこの制限を撤廃した[4]。スプーナーは、弁護士、医者あるいはそのような要求事項のために雇用を妨げられる職業について、全ての免許条項に反対した[5]。ある人が専門家免許の無い人との取引を妨げられるとすれば、それは契約に関する自然法を侵犯しているというのが見解だった[6]

スプーナーの過激な著作が顧客のつく機会を妨げて、法律実務では成功せず、またオハイオ州での不動産投機事業でも失敗した後、1840年に父の農場に戻った[4]
アメリカ文書郵便会社

スプーナーは自立の提唱者かつ政府による事業規制の反対者として、アメリカ合衆国郵便局と競合するアメリカ文書郵便会社と呼ぶ事業を興した。1840年代の郵便料金は恐ろしく高かった[7]。1844年、スプーナーはアメリカ文書郵便会社を設立し、ボルティモアフィラデルフィアおよびニューヨークなどの都市に事務所を置いた[8]。切手を購入し手紙に貼れば、その事務所に送られるようにした。そこからは契約代理人が手荷物に手紙を入れて、鉄道や蒸気船で移動した。手紙は経路上にある都市の配達人に渡され、その配達人が宛先に手紙を届けた。これはアメリカ合衆国郵便局の独占に対する挑戦だった[7][9]。スプーナーは、マサチューセッツ州法廷の規則に挑戦したときと同じように、「民間の郵便事業を禁じる連邦議会法の違憲性」と題する小冊子を出版した。スプーナーはその郵便会社で商業的に成功する可能性を見いだしたが、政府からの異議申し立てにより、財源を使い果たすことになった。その違憲性に関する主張を法廷で争う機会も無いままに、事業を閉ざすしかなくなった。郵便事業に対するスプーナーの挑戦として残された遺産は、その会社が競合したことへの反応で採用された3セントの切手だった[10]
奴隷制度廃止運動

スプーナーは奴隷制度廃止運動家として大きな名声を勝ちえた。その最も有名な著作は1845年に出版された『奴隷制度の違憲性』と題する本であり、奴隷制度廃止運動家の間では大きな賞賛を得たが、そうでない者からは批判を浴びた。この本は、アメリカ合衆国憲法が奴隷制度を支持しているかという問題について運動家の間に議論を起こすことに貢献した。ウィリアム・ロイド・ガリソンやウェンデル・フィリップスが率いる「分離派」は、憲法で奴隷を合法的に認め、その抑圧を強制していると論じた(例えば、第4章第2節における逃亡奴隷の捕獲条項)[11]。南部の政治家が、その「特別な制度」の保護が、憲法の基づく部分的な妥協の一部であると主張しており、憲法上の妥協を繰り返し訴えていることを、ガリソンたちは引き合いに出していた。分離派は、自由州が奴隷州と政治的な統合を続けていることは、自由州の住民をして奴隷制度に加担させることになると論じ、憲法について「死との盟約であり、地獄との協定である」と非難した[12]。より一般的には、ウェンデル・フィリップスが、不公正な法は判事によって法的に無効とされるべきであるというスプーナーの論点について議論した[13]

スプーナーは憲法の「文面」が奴隷制度を支持しているという主張に挑戦した[14]建国の父達が憲法を書いたときに奴隷制度を非合法化する「意図」はおそらく無かったことを認めたが、筆者の個人的な意図ではなく、文面の「意味」のみが強制力のあるものだと論じた。憲法の条項が通常奴隷制度を支持していると解釈されるが、実際には幾つかの条項で州に奴隷制度を法の下で設立することを禁じていると示すために、複雑な法の体系や自然法の論議を用いた[14]。スプーナーの主張は、ゲリット・スミスや自由党のような憲法擁護派の奴隷制度廃止運動家に引用され、1848年の綱領の文面として採用された。元々ガリソンの分離派に属していたフレデリック・ダグラスは後に憲法擁護派の立場を認めるようになり、その心変わりを説明するためにスプーナーの論点を挙げた。

スプーナーはその著作を出版した時点から1861年まで、積極的に奴隷制度に反対する運動を行った[15]。著作の後は陪審員による法の無視など逃亡奴隷を法的に守るための小冊子を出版し、逃亡奴隷に対して多くは無償で法的手続きを提供した[16]。1850年代後半、その著作の写しが連邦議会議員に配付され、その内容に関する議論を引き起こした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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