ライカ
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この項目では、ドイツの光学機器メーカーのブランド等について説明しています。その他の用法については「ライカ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ライカ
種類レンジファインダーカメラ一眼レフカメラ双眼鏡
使用開始国 ドイツ
使用開始1869年
ウェブサイトleica-camera.com/ja-JP
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ライカ I, 1927ライカM3

ライカ(Leica) とは
ドイツの光学機器メーカーであったエルンスト・ライツのブランド

1.が元になったライカカメラ、ライカマイクロシステムズ、ライカジオシステムズの社名の一部

である。本稿ではエルンスト・ライツとライカカメラおよびそのブランドとしてのライカについて述べる。
概略

高級レンジファインダーカメラ「Mシリーズ」や一眼レフカメラ「Rシリーズ」、コンパクトカメラプロジェクタフィールドスコープ双眼鏡など、さまざまな製品を開発・販売しており、そのレンズ描写性能などクオリティの高さから現在でもプロカメラマンをはじめアマチュアでもコレクターや愛好者が多い。またデジタルカメラの分野においてもパナソニックと提携を行なっている他、Rシリーズ用のデジタルカメラモジュールやMシリーズのデジタル版ライカM8の開発・発売、中判クラスのデジタル一眼レフカメラライカS2の開発発表、デジタル一眼レフカメラ共通規格であるフォーサーズシステムへの賛同などが行われている。
歴史
エルンスト・ライツ

ライカの前身は1849年にカール・ケルナーヘッセン州ヴェッツラーで設立した顕微鏡メーカーオプティシェス・インスティトゥート(Optisches Institut )である。ケルナーの死後、会社を未亡人が引き継いだが、従業員だったフリードリヒ・ベルトレ(Friedlich Berthle [注釈 1]、-1869年)がケルナーの未亡人と結婚し、社名をオプティシェス・インスティトゥート・ケルナー・ウント・ベルトレ(Optisches Institut Kellner Und Berthle )とした[1]

後に、スイスの工場で働いていたユンカースという見習いが働いていたスイスの工場で行なわれていた効率的な生産方法について説明した際に、その方法について詳しい機械工エルンスト・ライツ1世(Ernst Leitz I 、1843年-1929年)を紹介し、雇用するようベルトレに勧め、1865年にこの会社にエルンスト・ライツ1世が参加することとなった[1]

1869年にベルトレが死去するとエルンスト・ライツ1世は事業を引き継ぎ、社名をオプティシェス・インスティトゥート・フォン・エルンスト・ライツ(Optisches Institut Von Ernst Leitz )、さらにエルンスト・ライツ・オプティッシェ・ヴェルケ(Ernst Leitz Optische Werke )とした[2]1905年にはボディー本体をヒュッティヒに外注しカメラ生産に参入、1907年には双眼鏡生産に参入した。
カメラのブランドとしてのライカ

1911年1月2日[3]エルンスト・ライツに入社した技術者オスカー・バルナックは、1912年に映画用カメラを試作した[3]。そのフィルムをいじっているうち映画1コマと同寸法(24×18mm判)の小型スチルカメラを試作することにした。試作した動機について「当時感度も低く品質も安定していなかった映画用フィルムの適正露出を調べるためにそのフィルムの一部を使い実際に撮影してチェックするために開発した露出テスト用カメラが、スチルカメラとしても流用できることに気づいた」という説があるが、日本の代理店だったシュミット商会の中川一夫はバルナック自身が述べていないことや前後関係から否定的である。他には「無類の写真好きであったが、小柄で体力もさほどなかったバルナックにとって当時主流のガラス製で重い13×18cmの写真乾板を使用する木製大型カメラを持ち歩くことは困難だったため、自分にとって使いやすいカメラを求めて作り上げた」という説[4][5]など諸説ある。キノテッサー5cmを装着してテスト撮影したが、原版が小さすぎてハガキサイズ程度にしか引き伸ばしプリントできなかった[3]

次にバルナックは35mm映画用フィルムの2駒分を使用する小型カメラを2台試作した[3]。これは後にライカの起源として「ウル・ライカ」と呼ばれることになるが、この段階ではライカという名前はなく、この試作機が映画用フィルムの2コマ分である24×36mm判になった理由として、「試写の品質に満足できず2コマ分にしてみたらうまく行ったのでそれに決めた」という説と、「必要な面積を計算して2コマ分に行き着いた」という説がある[3]。2台のうち1台はバルナック自身が使い、もう1台はエルンスト・ライツ1世(Ernst Leitz I )に贈られた。これは1913年[3]または1914年[6][3]のことで、中川一夫によるとマックス・ベレークは1913年と言っていたという[3]

ライカ誕生30年に際し写真評論家の伊奈信男は「もしライカが産まれざりせば、他の35ミリカメラの誕生は、はるかにおくれたかもしれないし、あるいは全く生れなかったかもしれないのである。もしそうだったとしたら、写真の歴史は、今日のものとは違ったものとなって、おそらく書き換えられていたことであろう」と評している[3]

1920年にはエルンスト・ライツ1世が亡くなり、跡を継いだエルンスト・ライツ2世(Ernst Leitz II )がウル・ライカに着目、改良を加えさせた。折しも大不況の中、社内会議で発売中止に傾く中、エルンスト・ライツ2世はこれを製造に移すと宣言[7]し、「ライツのカメラ」(Leitz Camera )との意で「ライカ」と名付け1925年に市販一号機ライカI(A)を生産、販売することになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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