この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "ライオネル・リッチー"
アルバムについては「ライオネル・リッチー (アルバム)」をご覧ください。
ライオネル・リッチー
ケネディ・センター名誉賞にて(2017年)
基本情報
出生名Lionel Brockman Richie
生誕 (1949-06-20) 1949年6月20日(74歳)
アメリカ合衆国,アラバマ州タスキーギ
ジャンルクワイエット・ストーム
アダルト・コンテンポラリー
ポップ
AOR
職業シンガーソングライター
ミュージシャン
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
俳優
担当楽器ヴォーカル
ピアノ
キーボード
サックス
活動期間1967年 - 現在
レーベルIsland、MCA、Motown
公式サイトlionelrichie.com
ライオネル・ブロックマン・リッチー・ジュニア(英語: Lionel Brockman Richie, Jr.、1949年6月20日 - )は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサーである。ポップスを歌うアフリカ系アメリカ人歌手である。全世界アルバムトータルセールスは、1億枚以上を誇る[1]。 1974年に、コモドアーズのメンバーとしてデビュー。1982年からはソロ活動を行うようになり、1983年にリリースされたアルバム『オール・ナイト・ロング(Can't Slow Down)』は、全世界でトータルセールス2000万枚を超えた。そんな彼のダイアナ・ロスとの代表的デュエット曲「エンドレス・ラブ」は、日本では21世紀に入ってからもラジオでオンエアされた。 プライベートでは、1975年に大学で知り合ったブレンダ(Brenda Harvey)と結婚しており、彼女と共に、1983年にニコール・リッチーを養子に迎え入れている。しかし1993年に離婚し、25億円の慰謝料を支払ったと言われている[2]。
人物
来歴
コモドアーズ時代(英語版
コモドアーズは、1974年にアルバム『マシン・ガン』でデビューする。ファーストは全曲ダンス・ナンバーという魅力的なファンク・バンドだった。日本の音楽祭のため来日したこともある。しかしセカンド以降ファンク曲は極端に減ってしまい、「ブリックハウス」などわずかな曲数になった。バンドはライオネルの白いヴォーカルを強調したバラード曲「イージー」などのヒットを出し、AOR路線を押し進めるようになった。
ライオネルは、作曲家として他のアーティストに曲を提供した。ケニー・ロジャースの「レイディ」は、1980年に全米1位の大ヒットとなる。翌1981年には、ダイアナ・ロスとのデュエット曲「エンドレス・ラブ」も、全米1位の大ヒットを記録した。 1982年、ライオネルはコモドアーズを脱退し、初のソロ・アルバム『ライオネル・リッチー』を発表。同年に「トゥルーリー」が全米1位の大ヒットとなり、この曲でグラミー賞最優秀男性ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞を受賞した[4]。翌1983年に発表したアルバム『オール・ナイト・ロング(Can't Slow Down)』はグラミー賞最優秀アルバム賞と最優秀プロデューサー賞を獲得し、同アルバムからのシングルのうち「オール・ナイト・ロング」と「ハロー (心の扉)」は全米ナンバーワン・ヒットとなった。USAフォー・アフリカにてウィ・アー・ザ・ワールドを歌う 1985年にはマイケル・ジャクソンとの共作で、USAフォー・アフリカのチャリティー曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」を作曲し、2000万枚を売り上げた[5]。同年には映画『ホワイトナイツ/白夜』の主題歌「セイ・ユー、セイ・ミー」で自身5曲目の全米1位を獲得し、この曲はアカデミー歌曲賞とゴールデングローブ賞 主題歌賞を受賞した[6]。しかし、1986年発表のアルバム『セイ・ユー、セイ・ミー(Dancing on the Ceiling)』を最後に、ライオネルはしばらく表舞台から退いた。 1996年に、10年ぶりとなる復帰作を発表し、その後もアルバムを発表しているが、再びシングル・ヒットを出すことはできなかった。養子の娘ニコール・リッチーは、テレビパーソナリティとして”セレブ”となっている。
ソロ活動