ライオネル・サックヴィル_(初代ドーセット公)
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グレートブリテン王国政治家初代ドーセット公爵
ライオネル・サックヴィルLionel Sackville
1st Duke of Dorset
1719年、ゴドフリー・ネラー
生年月日1688年1月18日
没年月日1765年10月10日
死没地 グレートブリテン王国 ケント セブノークス ノール・ハウス
出身校ウェストミンスター・スクール
所属政党ホイッグ党
称号初代ドーセット公爵、第7代ドーセット伯爵、第2代ミドルセックス伯爵(英語版)、第7代バックハースト男爵(英語版)、第2代クランフィールド男爵、ガーター勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
配偶者エリザベス(旧姓コリアー)
親族第2代ドーセット公(英語版)(長男)、ジョン・サックヴィル(英語版)(次男)、初代サックヴィル子爵(三男)
アイルランド総督
在任期間1730年6月23日 - 1737年4月9日
1750年12月15日 - 1755年4月2日
国王ジョージ2世
枢密院議長
内閣ペラム内閣
在任期間1745年1月3日 - 1751年6月17日
貴族院議員
在任期間1708年1月19日 - 1765年10月10日
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初代ドーセット公爵ライオネル・クランフィールド・サックヴィル(英語: Lionel Cranfield Sackville, 1st Duke of Dorset, KG, PC1688年1月18日 - 1765年10月10日)は、イギリスの貴族、政治家。

ホイッグ党政権下でアイルランド総督を2二度務めた(在職1730年 - 1737年1750年 - 1755年)。

生誕から爵位を継承する1706年までバックハースト男爵(英語版)の儀礼称号を使用。1706年に第7代ドーセット伯爵位を継承し、1720年にドーセット公爵に叙せられた。
経歴

1688年1月18日に第6代ドーセット伯爵チャールズ・サックヴィル(英語版)とその妻メアリー(第3代ノーサンプトン伯爵ジェイムズ・コンプトンの娘)の間の唯一の男子として生まれた[1][2]

ウェストミンスター・スクールで学ぶ[1]1706年1月に父の死により未成年にして第7代ドーセット伯爵位を継承した。同年4月にはハノーファー選帝侯国への特使として派遣された初代ハリファックス伯爵チャールズ・モンタギューに随伴した[1]

1708年1月19日に成人に伴い貴族院議員に列した[1]。同年、名誉職の五港長官(英語版)とドーヴァー城の城守(Constable)に就任した。1710年のアン女王への報告書によれば彼はケント州のホイッグ党員であり、1714年6月の分裂法(英語版)に反対した議員の一人だった[1]

1714年8月のアン女王の崩御に際してはハノーファー選帝侯ゲオルク1世(ジョージ1世)に即位を伝える使者を務めた[1]。同年10月にグローム・オブ・ザ・ストール(英語版)と寝室第一侍従長(英語版)(first lord of the bedchamber)に就任するとともにガーター勲章を受勲した。同年11月に枢密顧問官にも列する[1]1716年4月の7年議会法(英語版)をめぐっては「3年任期の議会では国民の選挙への関心が薄れるうえ、群衆の気まぐれによって優れた憲法体制が破壊される」として賛成した貴族院議員の一人だった[1]1720年6月にはドーセット公爵に叙せられた[1]1725年5月には王室家政長官(英語版)に就任[1]

1727年10月11日ジョージ2世の戴冠式に際して大家令を務めた[1]1728年1月には五港長官とドーヴァー城城守に再任された[1]1730年6月19日にはアイルランド総督に任じられ、1737年3月まで務めた。在任中の1731年から1732年1733年から1734年1735年から1736年アイルランド議会の3回の会期のたびにアイルランドに赴任した。1731年には議会での金融質問で与党が敗れる事件があったが、それ以外は彼のアイルランド統治は概ね良好だった[1]。1735年には首相ロバート・ウォルポールによって第2代スカーバラ伯爵リチャード・ラムリーに変えられそうになったが、スカーバラ伯自身がドーセット公のアイルランド統治を評価してアイルランド総督職を辞退したため、沙汰やみとなった[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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