ライオネル・オブ・アントワープ
Lionel of Antwerp
クラレンス公
在位1362年11月13日 - 1368年10月7日
出生 (1338-11-29) 1338年11月29日
ブラバント、アントウェルペン
死去 (1368-10-17) 1368年10月17日(29歳没)
ピエモンテ、アルバ
埋葬パヴィア→サフォーク、クレア修道院
配偶者エリザベス・ド・バラ
ライオネル・オブ・アントワープ(Lionel of Antwerp, 1338年11月29日 - 1368年10月17日)は、イングランドの王族。イングランド王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの息子で、成人に達した2番目の王子。エドワード黒太子の弟、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント、ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリー、グロスター公トマス・オブ・ウッドストックの兄。1362年にクラレンス公に叙された。アントワープ(アントウェルペン)で生まれたため、この名で呼ばれる。
ヨーク朝を創始したエドワード4世はライオネルの弟エドマンドの男系の曾孫であるが、ライオネルの子孫でもあることをもって、ライオネルの弟ジョンの男系子孫であるランカスター家に勝る王位継承権を主張して対抗した。 1338年、両親が百年戦争における対フランスの前線にしていた滞在地・フランドルのアントウェルペンで誕生した。両親は以後もフランドルに留まり、2年後の1340年に弟のジョンがゴーント(ヘント)で生まれている[1]。
経歴
1359年に父がフランス遠征に出向くと、兄の黒太子や弟達と共に従軍したが成果が上がらず、翌1360年にブレティニー条約が締結され英仏両国は和睦した。妻エリザベスに仕えていたジェフリー・チョーサーも従軍しており、ライオネルと同行したことや1360年に一時捕虜になったり、解放されライオネル夫妻に再度仕えたことが記録されている[3]。
エリザベスと死別後、ミラノの僭主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティの娘ヴィオランテ(1353年頃 - 1386年)と1368年に再婚したが、同年に父に先立って死去。ヴィオランテとの間に子は無かった。ヴィオランテはライオネルの死後の1377年にモンフェッラート侯オットーネ3世(1378年死去)と再婚、さらに1381年にローディ領主ルドヴィコ・ヴィスコンティ(1358年 - 1381年)と再々婚した。
脚注^ 石井、P208 - P210。
^ 森、P139 - P140、P156、P164、P176、石井、P218。
^ 石井、P216 - P217、ブルーア、P147、P151 - P158、P162。
参考文献
森護『英国王室史話』大修館書店、1986年。
石井美樹子『イギリス 王妃たちの物語』 朝日新聞社、1997年。
デレク・ブルーア著、海老久人・朝倉文市訳『チョーサーの世界 詩人と歩く中世』八坂書房、2010年。
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