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出典検索?: "ライアン・ムーア" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年6月)
ライアン・ムーア
第42回ジャパンカップ優勝騎手インタビュー(2022年11月27日)
基本情報
国籍 イギリス
出身地 イングランド・バークシャー
生年月日 (1983-09-18) 1983年9月18日(40歳)
騎手情報
初免許年2000年
免許区分平地・障害
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ライアン・ムーア(Ryan Lee Moore、1983年9月18日 - )は、イギリスを拠点とする騎手。イギリス・バークシャー出身。父はゲーリー・ムーア(調教師)、弟はジェイミー・ムーア(障害競走専門騎手)。エイダン・オブライエン厩舎の主戦騎手を務めている。 2000年、5月18日にトウセスター競馬場で障害騎手としてデビュー。父の管理馬であるマーシービートで初騎乗初勝利を果たす。 2003年、39勝を挙げ最優秀見習い騎手となる。 2004年、5月に京王杯スプリングカップに出走したフィートソーファストに騎乗するために初めて日本を訪れ、中央競馬初騎乗となった同レースでは3着となった。同年イギリスで132勝を挙げ勝利数5位となる。 2006年、シャーガーカップにおいて5戦2勝、2着2回の成績で最優秀騎手賞を受賞する。インターナショナルステークスをノットナウケイトに騎乗して制し、G1初勝利を挙げる。この年は182勝を挙げ、イギリスのリーディングジョッキーとなる。当時23歳でのリーディングジョッキー獲得は史上2番目の若さである。12月には第20回ワールドスーパージョッキーズシリーズに参加したが、26ポイントで10位だった。 2007年、春先に右腕を骨折し、3か月の休養を強いられる。11月に第24回マイルチャンピオンシップに出走するベクラックスに騎乗するために3度目の来日を果たし、レースに挑むが8着だった。翌週第8回ジャパンカップダートと第27回ジャパンカップにも騎乗したが、それぞれ15着と7着だった。12月5日にインターナショナルジョッキーズチャンピオンシップに出場したが0ポイントで10位だった。12月にマイケル・スタウト調教師から、厩舎の主戦騎手に指名された[1]。 2008年、2回目のイギリスリーディングを獲得した。 2009年7月25日、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスをコンデュイットで制覇した。12月5日・12月6日には第23回ワールドスーパージョッキーズシリーズに出場。ゴールデンスパートロフィーをチャームナデシコに騎乗して勝利し、日本での初勝利を挙げた。総合成績は3位だった。そして12月9日には第12回インターナショナルジョッキーズチャンピオンシップに出場し、クリストフ・ルメール、ジョニー・ムルタと共に同点優勝を果たした。またこの年も前年に続いて、イギリスリーディングを獲得している。 2010年6月5日、ダービーステークス(英ダービー)をワークフォースで制し、ダービージョッキーとなった。10月3日には同馬とのコンビで凱旋門賞も制した。 11月14日、エリザベス女王杯をスノーフェアリーで制し、日本での重賞初勝利をG1で飾った。翌週、11月21日のマイルチャンピオンシップでもキンシャサノキセキに騎乗するため、11月16日から同月22日の期間で、初めて日本中央競馬会(JRA)の短期騎手免許を取得した[2]。11月17日、エリザベス女王杯の後検量の際に馬装具の一部を外していたことが発覚し、エドワード・ダンロップ調教師、ロビン・トレヴァー調教助手と共に、JRAより厳重注意処分を受けた[3]。11月27日、東京競馬場で行われた第24回ワールドスーパージョッキーズシリーズで初優勝を果たすと、12月8日の第13回インターナショナルジョッキーズチャンピオンシップでも優勝し、前年に続き連覇を達成した[4]。 2011年11月13日、スノーフェアリーでエリザベス女王杯を連覇した。1頭の外国馬が日本の平地GIを2勝したのはこれが初めてのことである[5]。 2012年8月19日、スノーフェアリーでジャンロマネ賞を勝利。しかし後のスノーフェアリーの薬物検査で、禁止薬物が検出されたため、その勝利を剥奪された[6]。 同年11月10日から12月24日の期間にかけて、JRAの短期騎手免許を取得した。身元引受調教師は美浦の堀宣行、身元引受馬主は吉田和子[7]。
来歴