ヨーロッパにおける政教分離の歴史
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1801年の政教協約(コンコルダ)の寓意画
ピエール・ジョセフ・セレスタン・フランソワ

ヨーロッパにおける政教分離の歴史(ヨーロッパにおけるせいきょうぶんりのれきし)では、ヨーロッパにおける政教分離原則の成立史、すなわちヨーロッパの諸国家政治社会と宗教キリスト教)との関係性の歴史について叙述する。

ヨーロッパにおいて、政教分離原則の成立は突発的な歴史事象としてあらわれたのではなく、長い歴史的過程のなかで徐々に進行した結果、成し遂げられたものである[1]。したがってここでは、その成立史を近代以前の政治社会にもさかのぼり、国制や宗教政策を軸として社会的背景や政治思想史・宗教思想史との関連も含めて記述し、ヨーロッパにおいて統治機構と宗教組織が分離していく過程として説明する。
概要近代以前の古代から中世までの政教関係の経緯については、「初期キリスト教」・「古代末期のキリスト教」・「中世ヨーロッパにおける教会と国家」・「キリスト教の歴史」を参照東方正教世界については「正教会」・「東ローマ帝国」を、正教会における国家と教会の関係を示す政治理念については「ビザンティン・ハーモニー」を参照

冒頭に述べたように、政教分離は突発性をもって説明しうる歴史事象ではなく、7世紀8世紀地中海を中心とした統一的な世界が消滅し、コンスタンティノープルを中心とする東方の正教世界から離れ、西ヨーロッパローマを中心としたカトリック世界として成立して以来、長い歴史過程のなかで徐々に進行してきた歴史事象である[1]

国法学日比野勤は、政教分離を「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と規定しており、その制度的現実化によって「宗教は公権力彼岸に位置づけられ、『私事』として主観的内面性を保障される」としている[1]。そして、そのうえで、
中世ヨーロッパにおける叙任権闘争

近世においては宗教改革に端を発して展開した宗教戦争

近代におけるフランス革命

の3つの事象を、政教分離を巨視的にみた際の重要な画期として指摘している[1]

国家の非宗教性(脱宗教性)については、しばしば「ライシテ」(フランス語: laicite)の語も用いられる。ライシテは一般に、国家が国教を立てたり特定の宗教を保護したりせず、複数の宗教が国家ないし政治から自立しながら相互に平等な地位を保障されるほか、そこにおける個人や集団も宗教の選択や信教の自由が保障される原理、またはその制度という理解が一般的である[2]。換言すれば、ライシテとは公的領域を脱宗教化することで私的領域における宗教の自由を保障しようとする公私二元論であり、これは宗教的ないし民族的な出自を問わない普遍的市民権の土台をなすものである一方、決して個人の社会的・文化的生活における宗教の役割が小さくなったり後退したりするという意味(それをしばしば「世俗化」という)ではない[2]。このような原理や制度は、もとより一朝一夕で生まれたものではなく、何世紀にもおよぶゆっくりした歩みの結果、徐々に形成されてきたものである[3]スペイン異端審問の様子(1495年頃)

中世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権とが分かちがたく結びついてそれが一体となっていたため、信教の自由は認められず、国教ないし公認の宗教・宗派以外は「異端」として刑罰を受け、迫害されてきた(詳細は、「異端審問」を参照[4])。16世紀17世紀宗教戦争以降、ヨーロッパでは宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいに広まり、現代においては世俗的な立憲国家憲法原則として広く採用されるところとなっている[4]

「信教の自由」との関連では、日本国憲法を含む多くの近代憲法で、その権利の保障を確実にする手立てとして政教分離原則が採用されている[5]。他方、政教分離が信教の自由を維持するために必ずしも不可欠の必要条件というわけではない[5]イギリスなど国教制を採用する国もあれば、スペインなど特定宗教に優越的な地位を認めたりする国もあり、そうした国家でも現代では信教の自由を保障する規定を設けている場合が多い[5]。とはいえ、信教の自由を徹底させようとするならば政教分離の裏づけを与えることは望ましく、政教分離のないところでは相対的に信教の自由が侵害されやすい傾向にある[5]。政教分離は、信教の自由を保障する手段としてヨーロッパにおける国家と宗教の錯綜した関係性のなかで徐々に確立してきたものであり、国家と宗教とがそれぞれ自らに固有の職務と領域に専心することで宗教が国家から不当な干渉や圧力から守られると同時に、国家もまた宗教の側からの不当な影響からまぬがれることをめざすものである[5]

本項では、ルネサンス・宗教改革および宗教戦争の時期から、絶対王政やフランス革命を経て国民国家が成立するまでの、16世紀初頭から19世紀前葉にかけてのヨーロッパにおける政教分離の歴史について説明する。

なお、叙任権闘争をはじめとする中世の政教関係史の詳細については「中世ヨーロッパにおける教会と国家」および「叙任権闘争」を参照。
ルネサンス「ルネサンス」および「イタリア・ルネサンス年表」も参照

14世紀イタリア半島では、船体の改良、新型帆船の登場、羅針盤の使用、海図の制作などが進み、地中海から大西洋沿岸を経て北方に連なる航路が開かれ、さらに15世紀末にはイベリア半島から新大陸へ向かう航路が開かれ、各地を結ぶ交易が活発化して商工業がめざましく発展し、その富をもととする都市文化が発展した[6]。特に、北部・中部のイタリア都市において市民によって発展させられた学問芸術は、15世紀にはフィレンツェの町を主な舞台として、その内容や様式をめざましく革新した[7]。この革新は、キリスト教成立以前の古典古代文明を意識的に規範としているゆえ、この文化ないし文化運動を「ルネサンス」(「再生」)と呼んでいる[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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