ヨーゼフ・メンゲレ
Josef Mengele
南米潜伏中のメンゲレ(1956年撮影)
渾名死の天使(ドイツ語:Todesengel)
ホワイトエンジェル
美男ヨーゼフ
ヴォルフガング・ゲアハルト(埋葬名)
生誕1911年3月16日
ドイツ帝国
バイエルン王国 ギュンツブルク
死没 (1979-02-07) 1979年2月7日(67歳没)
ブラジル
サンパウロ州 ベルティオガ
ヨーゼフ・メンゲレ(Josef Mengele、1911年3月16日 - 1979年2月7日)は、ドイツの医師、人類学者、親衛隊大尉。第二次世界大戦における戦争犯罪者として知られる。
1937年から人類生物学者、遺伝学者のオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーの助手として働いた後、メンゲレは1940年に武装親衛隊に志願した。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で彼は選別を行い、非人道的な人体実験を行った。戦後は南米で逃亡生活を送っていた。1949年7月に元SSメンバーのラットラインの支援を受けてアルゼンチンに航海した。彼は当初ブエノスアイレスとその周辺に住んでいたが、1959年にパラグアイに、1960年にブラジルに逃げ、その間ずっと西ドイツ、イスラエル、そして彼を裁判にかけたいと思っていたサイモン・ヴィーゼンタールなどのナチ・ハンターに求められていた。メンゲレは、西ドイツ政府による身柄引き渡し要求とイスラエルの諜報機関モサドによる秘密工作にもかかわらず、捕獲を逃れた。1964年初頭、フランクフルト大学およびミュンヘン大学は、ヒポクラテスの誓いを破ったこと、アウシュヴィッツで殺人の罪を犯したことを理由に、彼の医学と人類学における博士号を取りあげた。
1979年2月7日、サンパウロ州ベルティオガの海岸で海水浴中に心臓発作を起こし、溺死した。 メンゲレはドイツ南部バイエルン王国ギュンツブルクの裕福な農業機械工場経営者、カール・メンゲレとその妻・ワルブルガの間に、3人息子の長男として生まれた[1]。弟にカール・メンゲレ(1912年 - 1949年)およびアロイス・メンゲレ(1914年 - 1974年)がいた。 大学時代はミュンヘン大学、ウィーン大学、ボン大学で遺伝学、医学、人類学を研究し、1935年に下顎構造の人種間の差に関する研究で人類学の博士号を得た[2]。1937年、フランクフルト大学では指導教官オトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーの下で助手として遺伝生物学と民族衛生学を研究した[3]。1938年には「口唇口蓋裂の家系調査」の研究で医学博士号を取得した[4]。 両方の博士号はアウシュヴィッツでの犯罪を理由に取り上げられた。 1931年、20歳のときにヴァイマル共和国に反対する右翼政治団体である鉄兜団に加わる[5]。同団体は1933年の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の政権獲得後、ナチス突撃隊に吸収される[5]。その後、健康上の問題を理由に退団し1937年にナチ党に入党。1938年にSSに入隊。1938年から1939年まで6か月間、チロルの第137山岳兵連隊にて義務兵役に就く。 1939年、最初の妻となるイレーネと結婚して息子をもうけ、ロルフと名付けた[6][7]。1940年に武装親衛隊に志願、最初は予備医療部隊、次いで第5SS装甲師団「ヴィーキング」に軍医として配属され、東部戦線に従軍するが、1942年に負傷した[8]。第一級・第二級鉄十字章、黒色戦傷章、東部戦線従軍記念メダルなどを授与された[9]。1943年4月20日に親衛隊大尉に昇進。同年5月30日にアウシュヴィッツ強制収容所に配属された[9]。 メンゲレは、アウシュヴィッツに21か月間(1943年5月30日 - 1945年1月17日)勤務し、「死の天使」とも渾名された[10][9][11]。囚人の乗せられた貨車がアウシュヴィッツに到着した時、メンゲレはプラットフォームに立ち、降りてくる囚人の誰が仕事と実験に役立つか、また誰がガス室に送られるべきかを選別・指図した[12][13]。人体実験を行った理由は、自分の出世のために実験結果をどうしても認めさせる必要があったからであるが、メンゲレは義務としてユダヤ人を淘汰させることが本当に正しいかどうかで葛藤していたと言われている。
来歴
生い立ち
ナチス入党アウシュヴィッツ強制収容所にて撮影(左からリヒャルト・ベーア、ヨーゼフ・メンゲレ、ルドルフ・フェルディナント・ヘス)