ヨーゼフ・マイジンガー
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ヨーゼフ・マイジンガー
Josef Albert Meisinger

渾名ワルシャワの虐殺者
生誕1899年9月14日
ドイツ帝国
バイエルン王国 ミュンヘン
死没1947年3月7日
ポーランド ワルシャワ
所属組織 ドイツ帝国陸軍
親衛隊
軍歴1916年12月 - 1919年6月
1933年 - 1945年 (親衛隊)
最終階級親衛隊大佐
除隊後死刑
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ヨーゼフ・アルベルト・マイジンガー(Josef Albert Meisinger, 1899年9月14日1947年3月7日)は、ドイツ国親衛隊(SS)の将校。最終階級は親衛隊大佐(SS-Standartenfuhrer)及び警察大佐(Oberst der Polizei)。ポーランドワルシャワで大量虐殺をおこない、「ワルシャワの虐殺者」の異名を取った。その後、駐日ドイツ大使館に赴任し、ユダヤ人迫害を拒否する日本政府にホロコーストへの加担を要求した。目次

1 略歴

1.1 前半生

1.2 ナチス親衛隊

1.3 ワルシャワでの虐殺

1.4 日本赴任

1.5 対ユダヤ人政策

1.6 違法活動

1.7 逮捕・死


2 関連文献

3 脚注

4 参考文献

5 外部リンク

略歴
前半生

ドイツ帝国バイエルン王国ミュンヘン出身。ミュンヘンの小学校(Volksschule)を卒業後、ルイトポルト・ギムナジウムに入学。第一次世界大戦中の1916年12月にドイツ軍に志願し、砲兵連隊に属して西部戦線で戦った。大戦中、二級鉄十字章に叙勲した。

戦後は義勇軍(フライコール) に参加した。またミュンヘンの銀行や地方裁判所、警察本部などで働いた。1923年にナチ党党首アドルフ・ヒトラーが起こしたミュンヘン一揆の際には「オーバーラント義勇軍」のメンバーとして参加した。
ナチス親衛隊

1933年3月に親衛隊(SS)に入隊(隊員番号36,134)。さらに5月には正式にナチス党員となった(党員番号3,201,697)。1933年11月にはミュンヘン一揆参加者に与えられる血の勲章(1923年11月9日記念メダル)を叙勲した。メダルの番号は374番であった。この頃のマイジンガーは、バイエルン州政治警察長官ラインハルト・ハイドリヒの直属で働いていた。1934年4月にハイドリヒがゲシュタポ政治警察部長となり、ベルリンへ移動した後、マイジンガーもすぐにハイドリヒから招集されてハインリヒ・ミュラーフランツ・ヨーゼフ・フーバーとともにベルリンのゲシュタポ本部へ移動した。

1934年6月の長いナイフの夜の際には、カトリックの政治家エーリヒ・クラウゼナーの調査を行い、ハイドリヒに危険人物として報告した。結果、6月30日にクラウゼナーは親衛隊員により殺害されることとなった。

1935年初めにゲシュタポの機構改革がおこなわれ、マイジンガーは、ゲシュタポ第2部(政治警察部。部長はハイドリヒ)の中の「NSDAP、堕胎、175条(刑法175条の同性愛禁止条項のこと)、純血問題」担当課の課長に任じられた。ここはナチ党内の反ヒトラー派、妊娠中絶同性愛者、ユダヤ人との交際などを取り締まる部署であった[1]。1936年7月には陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ大将の同性愛者疑惑の捜査を行っている。この時のマイジンガーの捜査記録は、2年後にフリッチュを辞職に追いやる際に使用された(ブロンベルク罷免事件)。

1936年4月に親衛隊少佐となり、さらに1937年1月に親衛隊中佐に昇進している。しかし、マイジンガーは傲慢な性格であったため、ゲシュタポ内部でも嫌われていた。上司のハイドリヒは彼のことを「不快な奴(Widerling)」と呼び、ヴェルナー・ベストは彼のことを「残忍な方法を好む原始的人物」などと酷評した。ハインリヒ・ミュラーも絶えず彼の悪口を言っていた[2]。やがてマイジンガーはゲシュタポで居場所がなくなり、1938年にはSDの公文書保存局に移ることとなった。
ワルシャワでの虐殺

ポーランド侵攻後、アインザッツグルッペンIVの司令官代理となり、ワルシャワで「政治的に信用のならない者」、すなわちポーランドの知識人聖職者ユダヤ人などの銃殺活動に従事した。この活動と並行して1939年10月から1941年3月にかけてワルシャワの保安警察及びSD指揮官に任じられた。1940年1月に親衛隊大佐に昇進している。ワルシャワに在任中、マイジンガーは大量のポーランド人ユダヤ人の虐殺を指揮した。この中には悪名高いAB行動や、1,700人が虐殺されたパルミリー(英語版)の森の虐殺も含まれている。
日本赴任

1941年3月に一時ベルリン国家保安本部に呼び戻され、4月から東京駐日ドイツ大使館付警察武官兼SD代表として派遣された。着任直後、日本の特別高等警察憲兵隊と連絡を取り合い、ドイツの有力紙の特派員で、オイゲン・オット大使と親しく大使の顧問も務めていたリヒャルト・ゾルゲをはじめとする主要な在日ドイツ人の身辺調査を行っている。ヴァルター・シェレンベルクによると、ゾルゲの経歴が不審という情報を知ったシェレンベルクは、ゾルゲを非難中傷から守るとともにハイドリヒの意向で、東京に「左遷」されるマイジンガーにゾルゲ監視の任務を与えたという[3]

ゾルゲはマイジンガーと酒も酌み交わす親密な関係を築き[3]、マイジンガーはゾルゲを「信頼できる」と憲兵隊に身分保証して尾行を中止させた[4]。しかし、特高は引き続きゾルゲの尾行や調査を続けており、その結果、ゾルゲ事件が発覚し逮捕に繋がった[5]


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