ドイツ国の政治家ヨーゼフ・フィッツトゥームJosef Fitzthum
生年月日1896年9月14日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国
エスターライヒ・ウンター・デア・エンス大公国 ロイメルスドルフ
ヨーゼフ・"ヨッシ"・フィッツトゥーム(独: Josef ?Joschi“ Fitzthum、1896年9月14日 - 1945年1月10日)ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の将軍。最終階級は親衛隊中将、武装親衛隊及び警察中将。 オーストリア=ハンガリー帝国エスターライヒ・ウンター・デア・エンス大公国のロイメルスドルフ
略歴
青年期
1909年にロイメルスドルフの国民学校(ドイツ語版)を卒業した後、1908年にエンス(ドイツ語版)の陸軍幼年学校に入学し、1915年5月15日にメーリッシュ・ヴァイスキルヒェンの陸軍上級学校を卒業する。1916年8月18日にウィーンのメードリング(ドイツ語版)にある陸軍技術士官学校を卒業した後、チロル猟兵連隊の第3連隊に配属され、イタリア方面[2]に従軍する。1918年5月1日よりオーストリア帝国陸軍航空隊(ドイツ語版)に転属し、9月1日に第17航空中隊の指揮官となる[2]。
1919年1月31日に軍を離れ、ウィーン大学に2年間在学。1920年4月1日からウィーンの木材業者の下で働き、5月1日よりウィーン美術工芸学校(ドイツ語版)学長の秘書となる 1930年5月8日に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の活動に参加し、10月1日にはウィーンの大管区工場細胞指導者となる。1931年1月4日に入党(党員番号363,169)[3]。1932年4月5日に親衛隊に入隊し(隊員番号41,936)、ウィーンの親衛隊第11連隊に所属する。その後順調に出世を重ね、1932年9月9日には親衛隊第11連隊の指導者代行に任ぜられた。だが1933年1月21日にオーストリア政府当局に政治犯として逮捕され、3月29日までヴェラースドルフ収容所
ナチス親衛隊
1936年3月7日には親衛隊難民保護機関の幕僚員となる。11月1日に親衛隊上級地区「フルダ=ヴェラ」幕僚となり、11月16日から12月31日の間「マイン」SD上級地区指揮下の「トリーア」SD下級地区に所属し研修を受けている。1937年1月1日にはケルンの親衛隊第58連隊指導者に任じられ、10月1日からは親衛隊諜報部(SD)で研修を受ける。1938年3月10日より親衛隊諜報部(SD)所属となる[# 5]。 アンシュルス(オーストリア併合)直後の1938年3月12日にウィーン警察副長官に任命され、警察長官オットー・シュタインホイスルの代理となる。同時にウィーン市議会議員にもなっている。1938年4月1日からウィーン地区のドイツ国会議員となる。また9月1日にウィーン大管区指導部下の地区指導者と大管区演説者となる[4]。 だが1939年の夏にエルンスト・カルテンブルンナーにより、フィッツトゥームとその同僚のアーリア化への違法な参加が親衛隊に対して悪影響を与えていると告発された。8月8日にカルテンブルンナーは、恐喝の罪でフィッツトゥームの副官であるフランツ・ネベンフューア親衛隊少尉の逮捕を命じた[# 6]。 フィッツトゥームは副官が無実であると主張したが、ヒムラーはこの事件を知ると親衛隊法務本部 1940年3月14日に予備役将校として武装親衛隊に入り、4月1日に第9親衛隊髑髏連隊に配属される。6月9日に第15親衛隊髑髏連隊第3大隊長となり、1941年1月6日に第4親衛隊髑髏連隊[# 7]第2大隊長、7月15日に第4親衛隊髑髏歩兵連隊長代行、9月1日に第4親衛隊髑髏歩兵連隊第1大隊長を歴任する[6]。 1942年4月14日に戦死したSS義勇部隊「フランダーン」指揮官ハンス=アルベルト・フォン・レットウ=フォアベック
オーストリア併合
武装親衛隊