ヨーゼフ・クリップス
基本情報
出生名ヨーゼフ・アロイス・クリップス
Josef Alois Krips
生誕1902年4月8日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン
死没 (1974-10-13) 1974年10月13日(72歳没)
スイス、ジュネーヴ
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者
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ヨーゼフ・アロイス・クリップス(Josef Alois Krips、1902年4月8日 - 1974年10月13日)は、オーストリアの指揮者、ヴァイオリン奏者。弟ハインリヒ・ヨーゼフ(ヘンリー・クリップス)も指揮者として知られる。
略歴ヤン・ダーメンとクリップス(1951年2月19日、アムステルダムにて)
ウィーンの生まれ。父親はユダヤ人[1]。オイゼビウス・マンディチェフスキ、フェリックス・ワインガルトナーに師事し、1921年、ワインガルトナーの助手、合唱指揮者としてウィーン・フォルクスオーパーに入った。 その後、ドルトムント市立劇場
、カールスルーエ歌劇場などを経て、1933年にウィーン国立歌劇場の常任指揮者に就任、また1935年にウィーン国立音楽大学の教授に就任した。1938年3月のオーストリア併合の後、オーストリアを去ることを強いられ、ベオグラードに移り、ユーゴスラビアが第二次世界大戦に一時期巻き込まれるまで、地元のオーケストラで働いた。大戦終期には食品工場で働いていたが、「こっそりオペラの稽古をつけたり、プロンプター席に入って指示を出していた」という伝説もある。1950年から1954年までロンドン交響楽団の首席指揮者を務め、その後バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督となった。
1963年にコヴェント・ガーデン王立歌劇場、1966年にメトロポリタン歌劇場にそれぞれデビューした。
1968年、サンフランシスコ交響楽団と最初で最後の来日。クリップスと親交のあった日本人指揮者では、小澤征爾や大町陽一郎が挙げられる。
1970年、ベルリン・ドイツ・オペラの指揮者に就任、同年から1973年までの間ウィーン交響楽団の首席指揮者を務めた。
ジュネーヴにて病没。 ナチス政権に協力しなかったため、1945年の終戦後すぐにオーストリアの楽壇に復帰することができ、戦後ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とザルツブルク音楽祭を最初に指揮したひとりである(クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤンはナチ協力の嫌疑で復帰が遅れた)。巨匠不在のウィーン・フィルを支えた名匠といえる。モーツァルト、リヒャルト・シュトラウスの作品を得意とした。 角のとれた優美なクリップスとウィーン・フィル(国立歌劇場管弦楽団)の芸風は、1968年の『コジ・ファン・トゥッテ』、1970年の『エジプトのヘレナ
オペラの名指揮者
レコード・ファンの間ではとかくドイツ・オーストリア音楽だけの専門家と見られがちであるが、実際は特にアメリカ時代には現代作品を含む幅広いレパートリーを誇った。来日公演でもストラヴィンスキー、コープランドなどの作品を指揮している。 指揮者・ピアニストのダニエル・バレンボイムは、クリップスの演奏スタイルについて以下のように述べている[2]。古典派の作曲家、とくにモーツァルトとシューベルトを演奏する時には、いつも美しい歌うような音を生み出すことを強く求め、ほんのわずかな耳障りな響きも退けた。同時に、テンポとリズムの正確さに細心の注意を払い、表現のためにテンポを落とすという誘惑に屈することはなかった。彼は常に、音楽とは貴族的(アリストクラティック)なものであり、庶民的(デモクラティック)なものではないと言っていた[2]。 ブダペスト歌劇場でコレペティトゥーアを務めていたゲオルグ・ショルティは、ユダヤ系ゆえに指揮者としての出世は絶望的だったので、クリップスがブダペストに客演した際、彼が音楽監督を務めていたカールスルーエで助手として雇ってもらうよう懇願した[3]。クリップスはショルティの仕事ぶりを気に入り、ちょうどスタッフに欠員も出ていたので即座に採用した[3]。その結果、1932年10月にショルティはカールスルーエへと渡り、音楽監督クリップス、第2指揮者ルドルフ・シュヴァーツ しかし、ナチスの機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」は「クリップスが東欧のユダヤ人を歌劇場に招いた」としてこれを非難し、ショルティの解雇を求めた[4]。クリップスは、オーケストラ内にいる熱烈なナチ党員が自分を排斥するために行なったものだと判断しつつ、ショルティの安全のために、ナチスがまだ勢力を伸ばしていなかったマンハイムにて首席指揮者を務めていた、ヨーゼフ・ローゼンシュトックのもとへ行くよう促した[4]。
演奏スタイル
後進への支援
ゲオルグ・ショルティ