ヨーク朝
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ヨーク朝(ヨークちょう)は、1461年から1485年まで続いたイングランド王国の王朝。広義ではプランタジネット朝に含まれる。

ヨーク家(House of York)は、1385年にプランタジネット朝の国王エドワード3世の子エドマンド・オブ・ラングリーヨーク公に叙されたことに始まるプランタジネット家の支流である。プランタジネット家は後に同じくプランタジネット家分家のランカスター家に取って代わられたが、ヘンリー6世期の王権の低下に乗じてヨーク公リチャード・プランタジネットがイングランド王位を要求し、1455年にランカスター派と内戦(薔薇戦争)に突入した。

薔薇戦争中にヨーク公リチャード自身は敗死するが、結局ヨーク派はランカスター派の放逐に成功し、1461年にヨーク派によるヨーク朝が成立する。ヨーク朝は3人の王を出したが、1485年のボズワースの戦いリチャード3世リッチモンド伯ヘンリー・テューダーに敗れて戦死し、薔薇戦争の終結と共にヨーク朝は滅亡した。リッチモンド伯はヘンリー7世として即位し、テューダー朝が創始された。
薔薇戦争までのヨーク家

エドワード3世の五男でヨーク家の始祖エドマンド・オブ・ラングリーには、エドワード・オブ・ノリッジリチャード・オブ・コニスバラの2人の息子がいた。エドワード・オブ・ノリッジは1402年に公爵位を継承したが、子がないまま1415年10月のアジャンクールの戦いで戦死した。リチャード・オブ・コニスバラは同年6月にサウサンプトンの陰謀事件(英語版)[1]に関わって、国王ヘンリー5世に対する反逆罪で処刑された。だがリチャード・オブ・コニスバラはアン・モーティマーと結婚しており、後継ぎとなるリチャード・プランタジネットがいた。こうしてリチャード・プランタジネットは伯父エドワードのヨーク公領と父リチャードのケンブリッジ伯領を継承する事になった。

さらにアン・モーティマーはリチャード2世推定相続人であった弟のエドマンド1425年に死去すると、マーチ伯領を継承した。こうしてリチャード・プランタジネットは父と伯父とマーチ伯の大きな領土を相続した王位継承権者となった。
薔薇戦争ヨーク家のシンボルは白薔薇であり、今もヨークシャージャコバイトの記章として使用されている。

財産、爵位、王位継承権が揃っていたリチャード・プランタジネットであったが、王廷における主要なポストは与えられなかった。これは病弱な国王ヘンリー6世の周辺、特にサマセット公エドムンド・ボーフォートと王妃マーガレット・オブ・アンジューの方針だった。この頃からヨーク家とボーフォート家との対立は深まり、ヘンリー6世の病状が悪化した1453年から1454年に、ごく短期間ヨーク公がサマセット公を失脚させ、護国卿になり国王の後見人の座を勝ち取ったが、国王が回復するとすぐにボーフォート家は復権し、ヨーク公の官職はことごとくサマセット公が引き継いだ。

薔薇戦争は翌1455年第一次セント・オールバンズの戦いから始まり、サマセット公を討ち取ったヨーク公が再度護国卿として政権を担当した。当初ヨーク公の戦争目的は国王の周辺からランカスター派の貴族を一掃する事にあったが、彼が自分自身の王位継承権を主張したのは1460年10月になってからである。この年、ヨーク派は7月にノーサンプトンの戦いで国王ヘンリー6世を生け捕りにしていた。だが勝利は長くは続かず、12月のウェイクフィールドの戦いで逆にヨーク公と次男のラトランド伯エドマンドが捕らえられ、処刑された。

ヨーク公の王位継承の志は長男エドワードが継いだ。母方の従兄で後に『キングメーカー』と呼ばれるウォリック伯リチャード・ネヴィルの支援を受けたエドワードは、続くモーティマーズ・クロスの戦いでランカスター派を破り、前途を切り開いた。これに対応するためにヘンリー6世と王妃マーガレットが北部で活動していた間に、ウォリック伯は首都の支配権を得て、1461年にロンドンでエドワードが国王であると宣言されるようにした。その間にエドワードはタウトンの戦いで大勝して事実上ランカスター派軍を壊滅させ、王位を決定的にした。
ヨーク朝国王の統治

エドワード4世として即位したエドワードだが、その統治の初期はサマセット公の息子ヘンリー・ボーフォートらランカスター派の残党による反乱の鎮圧に費やされた。それが落ち着いた頃に、エドワード4世の結婚問題を契機として彼を国王に押し上げたウォリック伯まで離反した。ウォリック伯はエドワード4世の弟で長女イザベル・ネヴィルの夫クラレンス公ジョージ・プランタジネット、宿敵マーガレットが率いるランカスター派と手を結んで1470年にエドワード4世を追放、前国王ヘンリー6世の復位に成功したが、翌1471年にエドワード4世は反撃に出てクラレンス公を寝返らせ、ヘンリー6世を廃位して復位を果たした。続いてエドワード4世はバーネットの戦いでウォリック伯を討ち取り、テュークスベリーの戦いでランカスター派を撃破しマーガレットを捕らえた(後にフランスへ送還)。そしてヘンリー6世は幽閉先のロンドン塔で殺され、エドワード4世の政権はようやく安定を見た。

だが1483年にエドワード4世が死去すると、王位は12歳の息子であるエドワード5世が継いだが、少年王の摂政となった叔父でエドワード4世の末弟グロスター公リチャードはエドワード5世をその弟のヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーと共にロンドン塔に監禁した。塔に入れられて以降、王子たちは消息を絶った。

議会は「王たる資格[2]」という文書の中で、前王エドワード4世の結婚は無効であり、そのため2人の王子は庶出子であり、グロスター公こそが正当な王位継承者であると宣言した。1483年7月、グロスター公が即位してリチャード3世となった。
ヨーク家の敗北

リチャード3世には多くの敵がいた。それは主にランカスター派支持者であり、彼らの支持はランカスター家の傍流ボーフォート家の娘を母とする、テューダー家のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーへと集まっていった。1483年の終わりに起こったクーデターの試みは失敗したが、1485年にリチャード3世はボズワースの戦いでリッチモンド伯と対戦した。この戦闘で、リチャード3世の重要な支持者の何人かが寝返ったり参陣を見送ったりしたことにより、リチャード3世は戦死した。リチャード3世は、ヨーク家最後の王であるとともに、広義のプランタジネット家の最後の王であり、戦死した最後のイングランド王でもある。

リッチモンド伯は自身が国王であると宣言し、ヨーク家とランカスター家の生き残りたちの融合の象徴としてエドワード4世の長女(エドワード5世とヨーク公の姉)エリザベス・オブ・ヨークを妻とし、1603年まで続くテューダー朝の祖ヘンリー7世として即位した。


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