ヨークの戦い
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この項目では、米英戦争の戦闘について説明しています。867年の戦闘については「ヨークの戦い (867年)」をご覧ください。

ヨークの戦い
Battle of York
米英戦争

ヨークの戦いでのパイク将軍の戦死 、版画、1839年

時1813年4月27日
場所アッパー・カナダのヨーク(現在のオンタリオ州トロント
結果アメリカ軍の勝利

衝突した勢力
イギリス軍 アメリカ軍
指揮官
ロジャー・ヘイル・シーフゼブロン・パイク
アイザック・チョウンシー
ヘンリー・ディアボーン
戦力
正規兵300名
民兵300名
インディアン100名正規兵1,700名[1]
武装船14隻
被害者数
戦死82名
負傷43名
負傷後の捕虜69名
捕虜274名
不明7名[2]戦死55名
負傷265名[3]

ヨークの戦い(: Battle of York)は、米英戦争2年目の1813年4月27日、オンタリオ湖の北西岸、アッパー・カナダのヨーク(現在のカナダのオンタリオ州トロント)で起きた戦闘である。

海軍戦隊に支援されたアメリカ陸軍が湖岸の西で上陸し、イギリス軍守備隊を破って砦と造船所を占領した。撤退するイギリス軍が火薬庫を爆破したときに、この陸軍を率いていたゼブロン・パイク准将を含め、アメリカ軍は大きな損失を出した。

その後、アメリカ軍は町から撤退する前に放火や略奪などを行った。ヨークの町自体は軍事戦略的にキングストンほど重要な標的ではなかったので、アメリカ軍が勝利しても戦略的には大した結果に繋がらなかった。キングストンの町はイギリス軍の武装艦船が基地にしていた。
背景

アッパー・カナダ植民地首都のヨークはオンタリオ湖の北岸にあった。米英戦争のとき、この湖はアッパー・カナダとアメリカの前線であり、ケベック市から西部にある軍隊や前進基地へのイギリス軍供給線では重要部でもあった。開戦時のイギリス軍はプロビンシャル・マリーンと呼ぶ小さな海軍戦隊があり、それによってイギリスはオンタリオ湖とエリー湖を支配していた。このことで、アッパー・カナダのイギリス軍を指揮するアイザック・ブロック少将は、1812年にその小勢の部隊を脅威のある地点に素早く動かし、連携の取れていないアメリカ軍の攻撃を個別に撃破するということを何度か可能にしてきていた。

アメリカ海軍はアイザック・チョウンシー代将を指名してオンタリオ湖の支配権を奪取するよう指示していた。チョウンシーはニューヨーク州サケッツ港で、湖内にすでにあったスクーナー数隻を購入して武装させ、またこの目的のために戦闘艦の建造を命じて、戦闘艦の戦隊を作り上げた。しかし、冬が始まって決戦を挑むことができなかったので、両軍の戦隊共に氷で港に閉じこめられていた。イギリス軍はアメリカ海軍戦隊に対抗するために、キングストンでスループ・オブ・ウォー1隻を建造させ、ヨークの造船所でも同様の手配をした。この艦は1812年10月のクィーンストン・ハイツの戦いで戦死したアイザック・ブロック少将に因み、HMSサー・アイザック・ブロックと命名された。
アメリカ軍の作戦

1813年1月13日、ジョン・アームストロング・ジュニアアメリカ合衆国陸軍長官に指名された。アームストロングは軍人としての経験があり、直ぐにオンタリオ湖の情勢を評価し、新たな作戦を立てて、7,000名の正規兵による部隊を4月1日にサケッツ港に集結させることにした。この部隊はチョウンシーの戦隊と協業し、セントローレンス川の氷が溶けてそこそこの援軍がアッパー・カナダに送り込まれる前に、キングストンを占領することを目指した。キングストンを奪い、その海軍造船所と共にプロビンシャル・マリーンの艦船大半を破壊すれば、キングストンより西にいるイギリス軍は維持できたとしても脆弱なものになるはずだった[4]。キングストンを占領した後では、ヨークの基地やナイアガラ川河口にあるジョージ砦の占領も可能だった。

アームストロングは2月にニューヨーク州オールバニで、北方方面軍司令官ヘンリー・ディアボーン少将と協議した。ディアボーンとチョウンシーの2人ともこの時点でアームストロングの作戦に合意したが、その後考え方を変えた。その月、イギリス領カナダ軍政府司令官ジョージ・プレボスト中将は、凍ったセントローレンス川を遡ってアッパー・カナダを訪問した。ブロックを引き継いでアッパー・カナダ副総督となったロジャー・ヘイル・シーフ少将が病気になり、その様々な任務を遂行できない状態だったので、この訪問は必要だった。プレボストは僅かな援軍分遣隊を伴っただけであり、その途中でオグデンズバーグの戦いにも参戦した。それでもチョウンシーとディアボーンは、プレボストがアッパー・カナダに到着したことが、サケッツ港へのイギリス軍による攻撃が差し迫っている兆候と考え、キングストンには今や6,000名以上の正規兵守備隊が集まっていると報告した。

プレボストは間もなくローワー・カナダに戻り、イギリス軍の脱走兵やカナダのアメリカ寄り市民がキングストン守備隊の真の勢力は正規兵600名と民兵1,400名に過ぎないと報告しても[5]、チョウンシーとディアボーンは以前の過大に評価した数字しか受け入れなかった。さらにゼブロン・パイク准将が指揮する2個旅団が、ニューヨーク州プラッツバーグから冬季の大変な行軍をしてサケッツ港の部隊を補強した後でも、病気や体調不良のために有効な勢力は計画された7,000名に遙かに届かなかった。


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