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ヨランド・ド・フランス
Yolande de France
サヴォイア公妃
在位1465年 - 1472年
出生 (1434-09-03) 1434年9月3日
フランス王国、トゥール
死去 (1478-08-28) 1478年8月28日(43歳没)
サヴォイア公国、シャンベリ[1]
埋葬 サヴォイア公国、ヴェルチェッリ大聖堂
結婚1452年
配偶者サヴォイア公アメデーオ9世
子女一覧参照
家名ヴァロワ家
父親フランス王シャルル7世
母親マリー・ダンジュー
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ヨランド・ド・フランス(Yolande de France, 1434年9月3日 - 1478年8月28日)は、フランス王シャルル7世の娘で、サヴォイア公アメデーオ9世の妻。病気がちの夫や未成年の息子に代わり、長くサヴォイア家領の統治を行った。 シャルル7世王と王妃マリー・ダンジューの間の第6子、三女として生まれた。洗礼名は母方の祖母ヨランド・ダラゴンに因む。1452年、サヴォイア公ルドヴィーコの嫡男アメデーオ(9世)に嫁いだ。前年の1451年にはヨランドの兄の王太子ルイ(11世)とアメデーオの妹シャルロットとの結婚が行われている。フランス王家にとってサヴォイア家との縁組は、東部国境地帯の半独立的な領邦をフランスに結び付けておくための伝統的な婚姻政策であった。 夫は1465年に家督を相続したが、持病のてんかんの悪化により領国の統治が困難になり、1469年に公爵夫人ヨランドを摂政に任命した。ヨランドは兄王ルイ11世と仲が悪く、敵対するブルゴーニュ公爵家の当主シャルル突進公(次姉カトリーヌの寡夫)を支持しており、そのためにサヴォイア公国内では親フランス派と親ブルゴーニュ派の内戦が起こり、ヨランドを頭目とする後者が勝利した。外国人ヨランドの活発な政治参加は、サヴォイアの貴族層の反発を買ったが、1472年に夫が死去したことで、ヨランドは息子フィリベルト1世の摂政として、引き続き領国を治めることになる。亡夫の弟のジュネーヴ司教ジョヴァンニ・ルイジ
生涯
ヨランドは、シャルル突進公とスイス八邦同盟(ドイツ語版)との争いに、サヴォイア公国が巻き込まれるのを防げなかった。サヴォイア家は歴史的にスイス諸邦と友好関係にあったが、1470年代初頭には、多くのサヴォイア貴族層が、強大化を続けるブルゴーニュ公国の権勢になびく方が、スイスと渡り合うためにも有利と考えるようになっていた。当時、スイス同盟最強の邦ベルンがサヴォイア領ヴォー地方に進出し、またスイス同盟がサヴォイア領のジュネーヴやヴァレー地方を占領しているなど、サヴォイア家はスイスとの国境問題で劣勢だったのである。またシャルル突進公は、サヴォイア領ピエモンテ地方を脅かしていたミラノ公ガレアッツォ・マリーアとも同盟関係にあったので、サヴォイア公国はその面でもブルゴーニュ公に頼る方が有利に思われた。