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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe
ゲーテ。70歳の時の肖像。(1828年)
誕生ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ
1749年8月28日
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
自由帝国都市フランクフルト・アム・マイン
死没 (1832-03-22) 1832年3月22日(82歳没)
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国
ヴァイマル
職業小説家、劇作家、詩人、科学者、政治家
ジャンル詩、戯曲、小説
文学活動シュトゥルム・ウント・ドラング
ヴァイマル古典主義
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe[注釈 1]、1749年8月28日 - 1832年3月22日[1])は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、博学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。
その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。
シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」、「色彩論」などの著作を残している。 ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいこともあり、日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在した。このことを諷して斎藤緑雨が「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」と言ったというが、その出典は明らかではない[2]。 以下は、品川力(しながわつとむ 1904 - 2006)による45通りの表記である。 ヴィテー,ヴーテー,ギェーテ,ギオーテ,ギューテ,ギュエテ,ギョウテ,ギョエテ,ギョーツ,ギョーテ(ギョーテー),ギョオテ,ギョート,ギョテ(ギョテー),ギョテーイ,ギョヲテ,グウイーテ,グーテ,ゲイテ,ゲエテ,ゲーテ,ケーテー,ゲエテー,ゲーテー,ゲォエテ,ゲテ,ゲョーテ,ゲョテー,ゲヱテー,ゴアタ,ゴイセ,ゴエテ(ゴヱテ),ふをぬ、げえて,及義的,歌徳,俄以得,俄義的,葛徳,驚天,暁蛙亭,芸陽亭,芸亭,芸天,就是葛徳,倪提以,哥徳 [4][5] 1749年8月28日、自由帝国都市であったフランクフルト・アム・マインの裕福な家庭にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテとして生まれる。父方の家系はもとは蹄鉄工を家業としていたが、ゲーテの祖父にあたるフリードリヒ・ゲオルク・ゲーテ
表記と読み
生涯
生い立ちと少年期フランクフルトにあるゲーテの生家
父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に育てた。ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園に入れられ、読み書きや算数などの初等教育を受けた。5歳から寄宿制の初等学校に通うが、7歳のとき天然痘にかかって実家に戻り、以後は父が家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、カリグラフィー、演奏、ダンスなどを学ばせた。ゲーテは語学に長けており、少年時代にはすでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得している。少年時代のゲーテは読書を好み、『テレマック』や『ロビンソン・クルーソー』などの物語を始め手当たり次第に書物を読んだ(その中には『ファウスト』の民衆本も含まれる)。詩作が評判であったのも幼少の頃からであり、最も古いものではゲーテが8歳の時、母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶の詩が残っている。
14歳の時、ゲーテは近所の料理屋の娘の親戚でグレートヒェンという年上の娘に初恋をするも、失恋に終わる。なおこのグレートヒェンの名前はゲーテの代表作『ファウスト』の第一部のヒロインの名に取られている。
ライプツィヒ大学時代青年ゲーテの肖像(1765年 - 1768年頃)
1765年、ゲーテは16歳にして故郷を離れライプツィヒ大学の法学部に入学することになる。これは法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向であるが、ゲーテ自身はゲッティンゲンで文学研究をしたかったと回顧している。ゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借りて、最新のロココ調の服を着て都会風の生活をし、法学の勉強には身が入らなかった。この時期、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフ(愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を編んでいる[注釈 2]。しかし都会的で洗練された彼女に対するゲーテの嫉妬が彼女を苦しめることになり、この恋愛は破局に終わった。
ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通ったが、その後病魔に襲われてしまい、退学を余儀なくされた(病名は不明であるが、症状から結核と見られている)。