ヨハン・ミヒャエル・フォーグル
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ヨハン・ミヒャエル・フォーグル
Johann Michael Vogl
ヨゼフ・クリーフーバーによるリトグラフ
基本情報
生誕1768年8月10日 ハプスブルク帝国 シュタイアー
出身地 オーストリア帝国
死没1840年11月19日 オーストリア帝国 ウィーン
ジャンルオペラ、リート
職業歌手、作曲家
活動期間1794年 - 1840年

ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(Johann Michael Vogl, 1768年8月10日 - 1840年11月19日)はオーストリア帝国歌手作曲家フランツ・シューベルトの有力な支持者かつ支援者の一人であり、良かれと思って楽譜を一部改竄したことがあったとはいえ、シューベルトの歌曲を世に広く知らしめることに貢献した歌手の一人である。

声域はバリトンとされるが、実際にはテノールのパートも歌える幅広い声域を持っていたとも伝えられる[1]。フォーグルの生きた時代、特にオペラ歌手として舞台に立っていたころは、バリトンがテノールやバスとくらべて低く扱われていた時代であり、バリトンが主役に据えられたオペラは、フォーグルが活躍した時代になって初めて作曲された[2]
生涯

ヨハン・ミヒャエル・フォーグルは1768年8月10日、オーバーエスターライヒ地方シュタイアーに技術者の子として生まれる[3]。成長してクレムスミュンスター(ドイツ語版、英語版)のギムナジウムに進み、言語と哲学、法律[3]を学ぶ。クレムスミュンスター時代に、のちにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの弟子となるフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーと親しくなり、音楽の勉強も行うようになった。1786年にウィーンに移ってさらなる研さんに励み、1794年にジュスマイヤーの推薦によりウィーン宮廷歌劇場にデビューして[3]、その歌唱力と演技力で広く支持を集めることとなった。

1813年のある日、フォーグルはクリストフ・ヴィリバルト・グルックのオペラ『トーリードのイフィジェニー』の公演でオレステース役で出演していたが、その公演を当時神学校を出たばかりのシューベルトが聴いていた。シューベルトはかねてからフォーグルの出演する舞台を熱心に鑑賞しており、『トーリードのイフィジェニー』の公演後、フォーグルに敬意を示したうえで自分の友人となることを願っていた[4]。翌1814年には、二度目の改訂を終えたルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』の第三初演で典獄ピサロを演じた[5]フォーグルとシューベルト

フォーグルとシューベルトは1817年に初めて対面する。このころのシューベルトは自分の将来について父フランツ・テオドール・シューベルトと不和になっており、また、この年の創作量は少なめであった[6]。フォーグルとシューベルトの顔合わせは、そんなシューベルトを見かねた友人が、「高名な歌手にシューベルトの歌曲を歌ってもらって広めてもらおう」と発案したものであり、友人たちは使えるコネクションを駆使して、最初のうちは「音楽の天才」に嫌悪感を示したフォーグルの気を引くことに成功し、ついに引き合わせの承諾を得た[7]。友人の一人ヨーゼフ・フォン・シュパウン(英語版)の回想によれば、フォーグルと初めて対面したシューベルトはやや緊張してたが、それでもフォーグルの伴奏をこなしていった[8]。初対面ののちフォーグルはシューベルトに「いいものを持っているが、もっと積極的に表に出るべきだ」という意味の忠告を与え[9]、再会の約束をしないまま去って行ったが[8]、数週間後に再びシューベルトと友人の前に姿を見せ、『魔王』や『さすらい人』などを披露してみせた[10]。間もなくフォーグルとシューベルトは終生離れぬ友人となり、またフォーグルは自分のこれまで経験したことをシューベルトに伝授したほか、経済的に安定しなかったシューベルトのために様々な援助を惜しまなかった[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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