ヨハン・フリードリヒ_(ザクセン選帝侯)
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ヨハン・フリードリヒ
Johann Friedrich
ザクセン選帝侯
ヨハン・フリードリヒ(クラナッハ作、1531年)
在位1532年8月16日 - 1547年4月24日
別号ザクセン公(1世)
在位1532年8月16日 - 1554年3月3日

出生 (1503-06-30) 1503年6月30日
神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領、トルガウ
死去 (1554-03-03) 1554年3月3日(50歳没)
神聖ローマ帝国
ザクセン公領ヴァイマル
埋葬 神聖ローマ帝国
ザクセン公領ヴァイマル、市教会(ヘルダー教会)
配偶者ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク
子女ヨハン・フリードリヒ2世
ヨハン・ヴィルヘルム
ヨハン・エルンスト
ヨハン・フリードリヒ3世
家名ヴェッティン家エルンスト系
父親ヨハン
母親ゾフィー・フォン・メクレンブルク=シュヴェーリン
宗教キリスト教カトリック教会ルター派
サイン
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ルーカス・クラナッハ (父)『ヨハン不動公とヨハン・フリードリヒ度量公の肖像』 (1509年)、ナショナル・ギャラリー (ロンドン)。ヨハン・フリードリヒ度量公は、右側に少年時の姿で表されている。

ヨハン・フリードリヒ(1世)(Johann Friedrich (I.), 1503年6月30日 - 1554年3月3日)は、ザクセン選帝侯(在位:1532年 - 1547年[1]ザクセン公(在位:1532年 - 1554年)。ヴェッティン家エルンスト系のザクセン選帝侯ヨハンの長男。「度量公[1]」または「豪胆公[2]」(ドイツ語: der Grossmutige、英語: the Magnanimous[2])と呼ばれた。ベルギー王レオポルド1世は雲孫である。
生涯

マルティン・ルターと友好関係にあり、ヘッセン方伯フィリップと共にシュマルカルデン同盟の盟主となった[1]。しかし、1546年のシュマルカルデン戦争を経て、1547年に神聖ローマ皇帝カール5世ミュールベルクの戦いに敗れて捕縛され、選帝侯位と所領を剥奪された[1]。選帝侯位と所領のほとんどは又従弟でヴェッティン家の別系統(アルブレヒト系)に属するモーリッツに与えられ[1]、ヨハン・フリードリヒには「ザクセン公」の肩書とチューリンゲン地方の所領だけが残された。一方で、モーリッツの勢力拡大を恐れたカール5世は、ヨハン・フリードリヒの息子たちにテューリンゲンの各地の方伯として領土を与えて、ヴェッティン家の統一を阻んだ。
家族

1527年ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘ジビュレと結婚し、4男をもうけた。

ヨハン・フリードリヒ2世(1529年 - 1595年) - ザクセン公

ヨハン・ヴィルヘルム(1530年 - 1573年) - ザクセン公、後にザクセン=ヴァイマル公

ヨハン・エルンスト(1535年、夭折)

ヨハン・フリードリヒ3世(1538年 - 1565年) - ザクセン=ゴータ公

脚注
出典^ a b c d e ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,Britannica Japan Co., Ltd,2014,コトバンク版 2016年11月30日閲覧。
^ a b 東京富士美術館,収蔵品作品詳細, ⇒ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ豪胆公の肖像, 2016年11月30日閲覧。

関連項目

ザクセン=ゴータ公国ザクセン=コーブルク公国):末子ヨハン・フリードリヒ3世が統治した国

ザクセン=コーブルク=ゴータ公国ザクセン=コーブルク=ゴータ家):上記の国が統合したもの


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