ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック
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家族との自画像、1820年頃。バーンハウス所蔵

ヨーハン・フリードリヒ・オーファーベック (: Johann Friedrich Overbeck ⇒発音 ,1789年7月3日 - 1869年11月12日)は、ドイツナザレ派画家。4つのエッチングも描いた。
生涯
幼年時代

ヨーハン・フリードリヒ・オーファーベックは、リューベックで生まれた。3世代前の彼の先祖はプロテスタントの主任牧師であった。彼の父親クリスティアン・アドルフ・オーファーベック(1755年-1821年)は法学博士、詩人[1]、神秘主義の信徒、そしてリューベック市長を務めた。彼の祖父はゲオルク・クリスティアン・オーファーベック(1713年 - 1786年)といい、リューベックの弁護士で、祖母エレオノーレ・マリーア・ヤウホ(1732年 - 1797年)は名家ヤウホ (Jauch) 家出身であった。一家の住む建物からごく近いケーニッヒ通りに、ギムナジウムがあった。神学博士である叔父はそこの教師であった。そこで甥は古典の学徒となり、美術教育を受けたのである。

若きオーファーベックは1806年にリューベックを発ち、画家ハインリヒ・フリードリヒ・フューガーが教鞭をとるウィーンの美術アカデミーへ入学した。フューガーはフランス新古典主義の画家ジャック=ルイ・ダヴィッドに学んでいた。ここでは知識を得られたが、教育と共同団体が、繊細で宗教的な若者にとって我慢がならなくなった。オーファーベックは友に宛てて、自分が庶民社会に落ちたこと、どの貴族もこの庶民をアカデミー内で抑圧していると考えており、ここでは人間性の内にある全ての誠意が失われ、自分自身もひそかに自分がその状態にあると書きつづった。これらの文面は、彼の未来の地位と芸術に対する鍵である。彼が生きる根源をあらためて見いだした、キリスト教芸術の純粋な精神性が、数世紀の間に断絶し崩壊してしまっていた。彼は初期の、ラファエロ以前のイタリア画家らを光に当てることで、彼の同時代の他の一方に一票を投じた。4年の在学期間の最後の年、違和感が妥協できないほどになったオーファーベックと、彼に同意見の一団がアカデミーから放逐された。彼はウィーンでむなしく真の芸術を探し求めていたのであった。

「私の中はそれでいっぱいだった。私の空想全体が聖母とキリストで占められていた、しかし、どこにも私は答えを見つけることができなかった」

よって、彼はローマへ向けて発った。半分だけ仕上がった『エルサレムへ入るキリスト』のカンヴァスを持っていった。彼の信条の許可書の如くであった。『私は聖書に従う。私は己の普遍の場所のようにそこで召命を受ける。』
イタリア

オーファーベックは1810年にローマへ到着し、ここを59年間製作の中心地とした。彼は仲間のペーター・フォン・コルネーリウスフリードリヒ・ヴィルヘルム・シャード(シャードウ)、フィーリップ・ファイトらと、フランシスコ会の古いサン・イシドロ修道院に共に暮らした。彼らは友や敵の間で『ナザレ派』という描写的な別名で知られるようになった。彼らはドイツ・ロマン主義、教会ロマン主義、ドイツの愛国的・宗教的画家の集団であった。彼らの戒律は厳しく、誠実な製作と敬虔な生活が重んじられた。彼らは、ルネサンスを偽りだとして、異教を骨董品だとして遠ざけた。そして、簡素な環境において、ペルジーノピントゥリッキオフランチェスコ・フランチャ、そして若い頃のラファエロの真剣な芸術の、厳格な復興を起こした。画風の特徴はしかし理想の気高さから引き出された。几帳面さと下書きの厳しさすら、光の加わった形式主義者の構図であり、陰影と色は魅力のためでないが主に洞察力とモチーフの成就を引き出している。オーファーベックはナザレ派の運動の中での指導者であった。運動に加わった画家が記述を残している。

「誰も彼を直に見ないか、または彼の動機の純粋さ、深い既視感、知識の豊富さに疑問を持たずに、彼の話を聞く。彼は芸術と詩の宝庫で、聖人のような男である。」

しかし、苦闘は厳しくそして貧困がそれを報いた。しかし援助の手をさしのべる友ニーブールロベルト・ブンゼンフリードリヒ・シュレーゲルがやってきた。1813年、オーファーベックはローマ・カトリックに改宗し、そのために彼は自分の芸術はキリスト教徒としての洗礼を受けられると信じた。イタリアとゲルマニア ノイエ・ピナコテーク

折良く機会がまわってきた。プロシャ人領事、ヤコプ・ザロモン・バルトルディ(1779年 - 1825年、フェリックス・メンデルスゾーンの伯父)がピンチョの丘の端に家を持った。家はパラッツォ・ズッカーリ、またカーザ・バルトルディと呼ばれた。バルトルディはオーファーベック、コルネーリウス、ファイトとシャードらと部屋の装飾の契約を結んだ。7メートル四方にヨセフの物語を描いたフレスコ画がある(現在ベルリンアルト・ナツィオナールガレリー収蔵)。題材は、「7年飢饉」と「同胞に売られたヨセフ」である。これら実験的な壁画は1818年に完成し、イタリア人たちの間に好感を生んだ。

同じ年、マッシモ公が、オーファーベック、コルネーリウス、ファイトとユリウス・シュノルに、庭園のパヴィリオンの天井と壁画の装飾を依頼した。そこはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの近くで、トルクァート・タッソダンテルドヴィーコ・アリオストの文学的世界を描いた装飾フレスコ画があった。


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