ヨハン・パッヘルベル
Johann Pachelbel
パッヘルベルの自署。ゴータ市の有力者へ宛てた1695年の手紙より
基本情報
出生名Johann Pachelbel
生誕1653年9月1日 (洗礼日)
神聖ローマ帝国、ニュルンベルク
死没 (1706-03-09) 1706年3月9日(52歳没) (埋葬日)
神聖ローマ帝国、ニュルンベルク
ジャンルバロック音楽
職業作曲家
オルガニスト
教師
ヨハン・パッヘルベル(独: Johann Pachelbel[1]、1653年9月1日(受洗) - 1706年3月9日(埋葬)[2])は、バロック期のドイツの作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派
の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもある。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作、コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献したところから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人である[3]。パッヘルベルの作品は生前から人気が高かったため、師事する弟子も多く、またドイツ中部・南部の多くの作曲家の手本となった。現在では彼の作品で最も有名なのは「パッヘルベルのカノン」(Canon in D) であるが、これは彼が生涯に書いた唯一のカノンである。そのほか、シャコンヌ ヘ短調、トッカータ ホ短調などのオルガン曲、鍵盤楽器用の変奏曲集『アポロンの六弦琴』(『アポロの六弦琴』とも。Hexachordum Apollinis)などが知られている[4]。
パッヘルベルの音楽は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーやヨハン・カスパール・ケルルといった南ドイツの作曲家や、ジローラモ・フレスコバルディ、アレッサンドロ・ポリエッティなどのイタリアの作曲家、さらにはフランス、ニュルンベルク楽派などの作曲家から影響を受けていたとされる。パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデのような大胆な和声法も用いず、旋律的・和声的な明快さを強調した、明快で単純な対位法を好んで用いた。一方、ブクステフーデ同様に楽器を組み合わせた多様なアンサンブルの実験も行った。教会カンタータやアリアなどの声楽曲においてもそれが行われたことは特筆に価する。ただ、それらに見られる管楽器を含む豪華な器楽編成は、パッヘルベルの作品中では例外的であり、器楽曲作品の大半は室内楽曲である。目次
1 生涯
1.1 1653年?1673年: 幼年期から学生時代(ニュルンベルク、アルトドルフ、レーゲンスブルク)
1.2 1673年?1690年: 音楽家としての活躍(ウィーン、アイゼナハ、エアフルト)
1.3 1690年?1706年: 晩年(シュトゥットガルト、ゴータ、ニュルンベルク)
2 作品
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク
生涯
1653年?1673年: 幼年期から学生時代(ニュルンベルク、アルトドルフ、レーゲンスブルク) パッヘルベルの生涯にとって重要な役割を果たした、ニュルンベルクの聖ゼーバルドゥス教会
パッヘルベルは1653年、ニュルンベルクの中流家庭に、ワイン商のヨハン・(ハンス)・パッヘルベル(1613年ヴンジーデル生)[5]とその後妻アンナ(アンネ)・マリア・マイアーの息子として生まれた。正確な誕生日は分かっていないが、9月1日に洗礼を受けていることから8月下旬頃ではないかと見られている。
少年時代には、後に聖ゼーバルドゥス教会(ゼバルドゥス教会、ゼーバルト教会とも。ルター派)の聖歌隊先唱者となった音楽家・音楽教師ハインリヒ・シュヴェンマーから音楽の教育を受けた。同教会のオルガン奏者で、ニュルンベルク楽派の主要な作曲家でもあるゲオルク・カスパル・ヴェッカーにも師事していたとする文献もある[6][7][8]が、現在では疑問視されている[9]。