ヨハン・タイレ
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ヨハン・タイレ
Johann Theile
Johann Voorhout『Hausliche Musikszene』1674年
左でヴイールを弾いているのがおそらくタイレと言われる。他はディートリヒ・ブクステフーデヨハン・アダム・ラインケンなど。
基本情報
生誕1646年7月29日
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領
ナウムブルク
死没 (1724-06-24) 1724年6月24日(77歳没)
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領
ナウムブルク
ジャンル宗教音楽
職業作曲家、音楽理論家
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ヨハン・タイレ(Johann Theile, 1646年7月29日-1724年6月24日)は、ドイツ作曲家音楽理論家。とくに宗教音楽の作曲に優れ、同時代人からは「対位法の父」と称される。
生涯

タイレはその生涯において何度も任地を替えながら、音楽教師、宮廷楽長、オペラ作家等として幅広く活躍した。既にライプツィヒ大学法学部に在学中から、同大学の学生音楽団体であるコレギウム・ムジクムにおいて、歌手およびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として音楽活動を開始するとともに、1667年には処女作である学生歌集『世俗的アリアとカンツォネッタ集』を出版し、人気を集める。また、1666年-1672年の間には、ハインリヒ・シュッツに作曲の基礎を学ぶためにヴァイセンフェルスに赴き、シュッツの最後の弟子となる。その後、シュテッツィン、リューベックで音楽教師として活躍し、リューベック時代にはヨハン・アダム・ラインケンディートリヒ・ブクステフーデと親交を結ぶ。1673年に出版された『ミサ曲集第1巻』はブクステフーデに献呈したものであり、ブクステフーデもこれに応えて、同年タイレが出版した『マタイ受難曲』に賛辞の詩を寄せている。

1673年4月1日、タイレはホルシュタイン公国のゴットルフの宮廷楽長に任命される。ホルシュタイン公クリスティアン・アルブレヒトは宮廷楽団の充実につとめ、タイレが劇場音楽に手を染めたのもゴットルフにおいてであったとされている。しかしながら、クリスティアン・アルブレヒトは、デンマーク国王クリスチャン5世と対立して失脚し、1675年にタイレを供だってハンブルクに逃れる。当時ハンブルクでは、市民による公開オペラ劇場の建設がすすめられており、タイレもニコラウス・アダム・シュトルンク、ヨハン・アダム・ラインケン等とともに、オペラ劇場の創設者の一員として名を連ねる。1678年1月2日には、タイレのオペラ『アダムとイヴ、あるいは創造され、堕落し、救済された人間』がハンブルク・ゲンゼマルクト歌劇場のこけら落としで上演される。宗教的主題によるタイレの作品がこけら落としに選ばれたのは、オペラは堕落した娯楽だと主張するハンブルクの教会関係者の反対を抑えるためであったとされている。

1685年ヨハン・ローゼンミュラーの死去に伴い、その後任としてヴォルフェンビュッテルの宮廷楽長に就任する。さらに、1691年にはメルゼブルクの宮廷楽長に転出する。いずれの土地においても、タイレは有能な教師としても活躍し、ヴォルフェンビュッテルではゲオルク・エスターライヒを、また、メルゼブルクではヨハン・ツィーグラーをそれぞれ指導している。

1694年にメルゼブルク公クリスティアン2世が死去した後のタイレの活動には不明な点が少なくない。1701年-1705年頃にプロイセン国王フリードリヒ1世に献呈した『敬虔な教会音楽』の献辞では、国王にオーボエを教えたと述べており、1709年にはハレ大学で音楽教師として活動したことが知られている。その後、1718年には生地ナウムブルクに移り、1724年6月に死去するまで、同地の聖ヴェンツェル教会オルガニストであった息子ベネディクトゥス・フリードリヒの許で余生を過ごしている。
特徴

1708年にタイレが出版した作品目録(Opus musicalis compositionis)には、23曲のミサ曲、8曲のマニフィカト、12曲の詩篇曲等が掲載されており、今日までに少なからぬ作品が消失している。現存する作品の大半は合唱用の宗教音楽である。10曲のミサ曲は1曲を除いてすべて古様式(stile antico)にもとづいており、とくに『音楽の技法』(1691年頃)に収録された2曲のミサ曲は、いずれも転回可能な対位法が用いられているため、転回によってさらに2曲のミサ曲が生成する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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