ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
ヘルダー.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder, 1744年8月25日 - 1803年12月18日)は、ドイツの哲学者・文学者、詩人、神学者。
カントの哲学などに触発され、若きゲーテやシュトゥルム・ウント・ドラング、ドイツ古典主義文学およびドイツロマン主義に多大な影響を残すなどドイツ文学・哲学両面において忘れることの出来ない人物である。優れた言語論や歴史哲学、詩作を残したほか、一世を風靡していたカントの超越論的観念論の哲学と対決し、歴史的・人間発生学的な見地から自身の哲学を展開し、カントの哲学とは違った面で20世紀の哲学に影響を与えた人物としても知られている。
地質学者・鉱物学者のジギムント・アウグスト・ヴォルフガング・ヘルダーは息子で、植物学者のフェルディナント・ゴットフリート・フォン・ヘルダーは孫である。
生涯
生い立ちからケーニヒスベルクまで東プロイセン・モールンゲン
(現在のポーランド・ヴァルミア=マズールィ県オストルダ郡モロンク)に、織物職人の子として生まれる。家庭は裕福ではなく、父親はオルガン奏者や小学校の教員などで家計を維持していた。ヘルダーは学校では抜群の成績を残していたが、貧困のため大学には進学できずにいた。1761年、七年戦争からロシアへ引き上げる途中、モールンゲンに駐在していた軍医によってヘルダーの才能が見出され、軍医は彼を外科医にするためにケーニヒスベルクへ連れていき、ケーニヒスベルク大学の医学部に入学させた。しかし、医学部の授業には馴染めず神学部に転部。たまたま当大学で哲学を担当していたカントの講義を聞き、大いに刺激を受けた(ただし、この頃のカントは批判期以前で、カントは物理学から地理学まで担当しており、この百科全書的な知識にヘルダーは惹かれたらしい)。その後も、師、友人、ライバルとして、カントは生涯を通じてヘルダーに影響を与えた人物であった。
当地ではカント以上に親交が深かった人物がいた。「北の博士」の異名をもつ思想家ハーマンである。ハーマンはケーニヒスベルク出身で、ヘルダーが当地で学んでいた時は、既に「ロンドンの回心」の後であり、当地に戻って英文学やイスラム学を研究していた。ハーマン家は代々眼科医で、ヘルダーが眼病を患ってハーマンの診療所に通ったことが、彼を知る機縁であったといわれている。敬虔なヘルダーにとってハーマンの存在は魅力的であり、ハーマンからシェイクスピアの文学やディヴィッド・ヒュームの哲学などを学んだといわれている。その後ヘルダーは大学卒業後、ハーマンの紹介でケーニヒスベルクよりさらに北方のリガの大聖堂の説教師に就く事ができた。
リガからフランス滞在まで当地リガでは熱心な教育ぶりが買われ、好評であった。またハーマンの発行する文芸新聞にハーマンの詩の批評をすることができた。この批評も好評で、ヘルダーの文芸評論の才能を世間に認めさせることになった。1766年からは文筆活動も開始、『現代ドイツ文学断章』を出版。これは、ゴットホルト・エフライム・レッシング、モーゼス・メンデルスゾーン、トマス・アプトらが中心となって編集していた『最近のドイツ文学に関する文学書簡』という雑誌に対する見解が元になっており、後の文芸評論に大きな影響を与えた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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