ヨハン・グスタフ・ドロイゼン
生誕Johann Gustav Droysen
(1808-07-06) 1808年7月6日
プロイセン王国ポンメルン州トレプトウ
ヨハン・グスタフ・ドロイゼン(ドイツ語: Johann Gustav Bernhard Droysen、1808年7月6日 ? 1884年6月19日[1])は、プロイセン王国ポンメルン州トレプトウ(英語版)生まれ、ドイツの歴史家、政治家。
歴史家として特にギリシャ史を研究し、アレクサンドロス大王以後の時代について「ヘレニズム」を提唱した最初の人物である[2][3][4]。また、政治家としてはドイツ三月革命が1848年に起こるとフランクフルト国民議会の議員となり[5]、プロイセンを中心とするドイツ統一を主張してプロイセン学派を牽引した。 ポンメルン州のトレプトー・アン・デア・レーガ(Treptow an der Rega、低地ドイツ語: Treptow an de Rega、現・ポーランド領チェビヤトフ
生涯
1833年ベルリン大学の私講師の職に就き、1835年には員外教授の地位に昇進。1840年にキール大学の招聘に応じて正教授に就任したが、この時期プロイセン王国の強化とドイツ統一という目的のために古典学の研究を放棄し、政論家としての活動に専念した。1851年、オルミュッツ協定によってプロイセンがドイツ統一の企図を放棄した時にイェーナ大学に転職したのをきっかけに歴史学研究に復帰し、1859年にはベルリン大学に招かれ亡くなるまで教授を務めた。
歴史家のグスタフ・ドロイゼン は息子である。 ドロイゼンの青年期は、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインとカール・アウグスト・ハルデンベルクによるプロイセン改革にあたり、ドイツ国民としての自覚が生まれつつある時代と重なる。その『プロイセン政治史』は、プロイセンがドイツ統一という義務に目覚めることを期して書かれた。祖国プロイセンへの熱烈な愛国心は、ドロイゼンの著作活動に一貫して働いている。 ヘーゲルの「理念が歴史を通じて支配する」という発想をドロイゼンはある程度、継承している。しかしそれ以上に実践や倫理を強調し「かくあらねばならぬ」という理想から歴史を解釈する傾向により、「歴史学におけるフィヒテ」と呼ばれることがある。 ドロイゼンが「歴史学のベーコン」という敬称で呼ぶヴィルヘルム・フンボルトの史的理念説 (Histrische Ideenlehre) では、理念は現実を離れて考察されるものではなく、かえって歴史の現実のうちに探索されるべきものであった。
史学の特徴