ヨハン・カスパー・ラヴァーター
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2020年5月)
ラヴァーターの肖像。アウグスト・フリードリヒ・エーレンハインツ(ドイツ語版)による。

ヨハン・カスパー・ラヴァーター(Johann Caspar Lavater、1741年11月15日チューリヒ - 1801年1月2日同)は、スイスの改革派の牧師であり、啓蒙期の思想家、著作家である。近代観相学(顔貌と性格・気質との関係を考察する学)の祖として知られている。
生涯

1741年、チューリヒの医者の息子として生まれる。まずドイツ語学校に、ついでラテン語学校、1754年よりコレギウム・フマニタシスに通い、1756年から1762年まではコレギウム・カロリヌムでヨハン・ヤコブ・ボドマーとヨハン・ヤコブ・ブライティンガー(ドイツ語版)の教えを受ける。1762年牧師に任職される。同年、学友でのちに著名な画家となるヨハン・ハインリヒ・フュースリーとともに前任のラントフォークト(帝国直轄地域の管理職)フェリクス・グレーベルの不正を書面で告発した。

1763年、フュースリーとともに北ドイツへの修養旅行を企て、スウェーデン-ポメラニアのバースにて啓蒙期の改革派の神学者ヨハン・ヨアヒム・シュパルディング(ドイツ語版)のもとで聖職のための修行を行う。またその旅行途中に、ベルリンで同時代の様々な著名人(クリスティアン・フュルヒテゴット・ゲレルトモーゼス・メンデルスゾーンフリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックなど)と親交を結んだ。8ヶ月間を過ごしたバースではまた批評的著作によって文筆業の端緒を開いた。

1764年にチューリヒに戻ったのち、様々な団体を設立し、また最初の重要な著作群を出版した。1769年にヴァイゼンハウス教会の執事、1775年に同牧師、1778年に聖ペーター教会の執事、1786年に同牧師となった。

1769年、ラヴァーターはシャルル・ボネの著作をドイツ語に翻訳し、これに対する反論ないしキリスト教への改宗をさせることを意図してメンデルスゾーンにこれを捧げた[1]。これによってメンデルスゾーンとラヴァーターの間で書簡による論争が始まり、この成り行きはヨーロッパ中の学者から注目を受けた[2][3]。この論争中、ラヴァーターは法律家・神学者のヨハン・バルタザール・ケルベレ(ドイツ語版)から支持を受けている[4][5]

1774年ラーン川旅行にてゲーテヨハン・ベルンハルト・バゼドウ、ヨハン・ゲルハルト・ハーゼンカンプ(ドイツ語版)らと知り合う。このときの旅行中にゲーテ、バゼドウ、ラヴァーターの3人でとった食事のことを詠ったゲーテの詩(「右に予言者、左に予言者、俗世の子どもはまん中に」[6](Prophete rechts, Prophete links, das Weltkind in der Mitten))は、のちにゲーテの自伝『詩と真実』でも引用されよく知られた詩句となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:17 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef