ヨハン・アドルフ・ハッセ
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ヨハン・アドルフ・ハッセ
Johann Adolph Hasse

基本情報
生誕1699年3月25日
神聖ローマ帝国 ベルゲドルフ
死没1783年12月16日
ヴェネツィア共和国 ヴェネツィア
職業歌手作曲家
ヨハン・アドルフ・ハッセベルゲドルフの生家前にある記念像ヨハン・アドルフ・ハッセ(1740年).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

ヨハン・アドルフ・ハッセ(Johann Adolph Hasse, 1699年3月25日 - 1783年12月16日)は、ドイツ作曲家
生涯

ハンブルク近郊のベルゲドルフに生まれ、最初は父親に音楽教育を受ける。素晴らしいテノールの声の持ち主であったため、彼は劇団員の道を選び、1718年ラインハルト・カイザーが指揮するオペラ劇団に参加した(この劇団のオーケストラでは、その数年前にヘンデルが第2ヴァイオリンを演奏していた)。

ハッセは歌手として成功を収めたことで翌1719年ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの宮廷劇場と契約し、その後作曲も担うようになり、この地で1721年に、オペラ『アンティゴノス』(Antigonus)をもって作曲家デビューを果たした。この最初の作品の成功によりブランシュヴァイク公は、ハッセを勉学の完成のためにイタリアへ遊学させた。ハッセはヴェネツィアボローニャローマを訪問したのち1724年ナポリへ着いた(従来は1722年までナポリ音楽院の声楽教師だったニコラ・ポルポラに最初に学んだと考えられていたが、ハッセがナポリに到着する前にポルポラが音楽院を去っているため、現在は疑問視されている)。ハッセはナポリでアレッサンドロ・スカルラッティと親しくなり、彼に師事し、その音楽を身に付けた。彼の作曲した二声のセレナータ(裕福な商人の家族の祝宴で、当時のイタリアきっての歌手であったファリネッリヴィットーリア・テージによって歌われた)はスカルラッティから学んだ音楽で作られ、成功を収めた。

この成功によってハッセの名声は高まった。彼は単に有名なだけではない人気を得、ナポリ人から「親愛なるザクセン人(イル・サロ・サッソーネ)」と呼ばれた[1]1726年にナポリの宮廷オペラのために作られたオペラ作品『セソストラート』(Sesostrato)は、彼の名をイタリア中に知れ渡らせた。1727年ヴェネツィアへ移ったハッセはそこで有名な歌手のヴェネツィア貴族の娘ファウスティーナ・ボルドーニ、人気台本作家の詩人ピエトロ・メタスタージオと出会う。メタスタージオとハッセは意気投合して親友となり、以後2人は終生の友情を保った。

1730年にザクセン選帝侯ポーランド国王フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷楽長に任命されたハッセは、直後にファウスティーナと結婚し、ボルドーニ家の養子となってヴェネツィアの市民権を得た。ザクセン公はすぐにドレスデンへ来ることを望んだが、ハッセはおそらく妻の要望によってヴェネツィアに1年間留まり、ドレスデンへ移ったのは1732年の7月だった。ハッセは9月にドレスデン初のオペラ『クレオフィーデ』の作曲をすると、後は再びイタリアへ行き、さらに1733年にはロンドンへ移った。この地で彼は、ヘンデルと対立している排他的な派閥に、この大家の競争者になるように誘いをかけられている。しかし彼は賢明にもそれを丁重に断っており、ロンドンには貴族オペラ・カンパニー発足のこけら落としとして上演されるオペラ『アルタセルセ』(Artaserse)(初演は1730年、ヴェネツィア)のリハーサルを監督をするだけの期間のみ滞在し、1734年になるとドレスデンに戻った。ファウスティーナはドレスデンで歌手として活躍したが、1733年にフリードリッヒ・アウグスト1世が崩御し、フリードリッヒ・アウグスト2世が即位した後、次第に宮廷での人気が衰え、ハッセにヴェネツィアへ帰るように求めた。

ハッセは長期休暇を取る権利を与えられていた為、望まれる度に外国へ招かれ、特に妻ファウスティーナの実家のヴェネツィアには妻を伴って度々赴き、妻が望むままに長期滞在を重ねた。ハッセはイタリア人に、その官職と貴族の養子であることから、シニョーレ・サッソーネ(ザクセン卿)と呼ばれ、敬愛された。プロイセンには国王フリードリッヒ2世の招きで1742年と1745年に赴いてオペラの公演を行った。フルート奏者でもある国王はハッセのフルート音楽も愛好していたと見られている。1943年以降はウィーンにも度々訪問し、アントニオ・カルダーラ亡き後創作意欲を欠いていたメタスタージオを喚起させ、彼の台本によるオペラを初演した、その間ドレスデンでも積極的に作曲し、その影響はドイツの他の都市にも広まった。


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