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やノートページでの議論にご協力ください。聖人 ヨハネ・パウロ2世
第264代ローマ教皇
教皇就任1978年10月16日
教皇離任2005年4月2日
先代ヨハネ・パウロ1世
次代ベネディクト16世
司祭叙階1946年11月1日
司教叙階1958年9月28日
聖人
記念日10月22日
列福2011年5月1日
列福決定者ベネディクト16世
列聖2014年4月27日
列聖決定者フランシスコ
個人情報
出生 (1920-05-18) 1920年5月18日
ポーランド ヴァドヴィツェ
死去 (2005-04-02) 2005年4月2日(84歳没)
バチカン バチカン市国
埋葬地サン・ピエトロ大聖堂
原国籍 ポーランド
宗派ローマ・カトリック教会
親父親 カロル
母親 エミリア
母校アンジェリクム神学大学
署名
紋章
その他のヨハネ・パウロ
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ヨハネ・パウロ2世(羅:Ioannes Paulus II, 伊:Giovanni Paolo II, 1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ヨハネス・パウルス2世、ヨアンネス・パウルス2世[1]とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Jozef Wojty?a)。
概要教皇紋章
ハドリアヌス6世[注釈 1]以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして、史上初のポーランド人教皇である。同時に20世紀中、最年少で着座した教皇でもある。カトリック教会の聖人で[注釈 2]、教皇ヨハネ23世とともに列聖された[注釈 3]。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。
冷戦末期において、世界平和と戦争反対を呼びかけ、数々の平和行動を実践し、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを初めとする各国の民主化活動の精神的支柱としての役割を果たした。世界129か国を訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれた[2]。
また、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行うとともに、エキュメニズムの精神からキリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めている。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
生涯
出典検索?: "ヨハネ・パウロ2世" ローマ教皇
非合法神学校から枢機卿へ司祭のときのカロル・ヴォイティワ(ヨハネ・パウロ2世)
カロル・ヴォイティワは1920年、クラクフ近郊のヴァドヴィツェに父カロル、母エミリアの間に次男として生まれた。父カロルはハプスブルク家の軍隊に仕えたこともある退役軍人であった。
ヴォイティワは若くして家族の喪失を体験した。8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失った。当時、ヴォイティワは戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになる。
1939年、ヴォイティワが19歳のときにナチス・ドイツのポーランド侵攻によってポーランドが占領されたことで、ヴォイティワが学んでいた大学が閉鎖されたため、鉱山や工場で働きながら勉学を続け、同時に地下演劇の俳優、脚本家としても活動していた。
ヴォイティワは第二次世界大戦中の1943年に聖職者として生きることを決意したが、共産主義政権下で神学校の運営が禁止されていたため、非合法の地下神学校に入り、1946年11月1日に司祭に叙階された。
優秀だったヴォイティワは、司教の推薦でローマの教皇庁立アンジェリクム神学大学に送られ、そこで学んだ。1948年には十字架の聖ヨハネの著作における信仰概念についての研究で神学博士号を取得している。また、ヴォイティワはこの年にポーランドへ戻り、クラクフの教区司祭としての職務を果たした。
1953年にヴォイティワは『カトリック倫理をマックス・シェーラーの倫理体系によって基礎づけることの可能性についての評価』と題する学位論文をルブリン・カトリック大学に提出、その後もクラクフのヤギェウォ大学、ルブリン大学神学部で倫理神学を教えた。
1958年7月4日、ヴォイティワはピウス12世によってクラクフ教区の補佐司教に任じられ、9月28日に叙階した。時に38歳であった。
1962年に開始された第2バチカン公会議には、クラクフ司教および神学者として参加し、特に重要な2つの公会議文書『信教の自由に関する宣言 (Dignitatis Humanae)』および『現代世界憲章 (Gaudium et spes)』の成立に貢献した。