福者 ヨハネ・パウロ1世
第263代ローマ教皇
教皇就任1978年8月26日
教皇離任1978年9月28日
先代パウロ6世
次代ヨハネ・パウロ2世
司祭叙階1935年7月7日
司教叙階1958年
聖人
称号福者
列福2022年9月4日
列福決定者フランシスコ
個人情報
出生1912年10月17日
イタリア王国、ベッルーノ県
カナーレ・ダーゴルド
死去 (1978-09-28) 1978年9月28日(65歳没)
バチカン、バチカン宮殿
埋葬地サン・ピエトロ大聖堂
原国籍 イタリア
紋章
その他のヨハネ・パウロ
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ヨハネ・パウロ1世(羅: Ioannes Paulus I、伊: Giovanni Paolo I、1912年10月17日 - 1978年9月28日)は、ローマ教皇(在位: 1978年8月26日 - 1978年9月28日)、カトリック教会の教皇。教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用した。宗教事業協会の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。 アルビーノ・ルチャーニはイタリアのヴェネツィアから北へ約120kmのベッルーノ県カナーレ・ダーゴルドで、長男として生まれた。ルチャーニには2人の弟と1人の妹がいた。 敬虔な信者であった母親の深い感化を受けて育ち、幼少の頃より司祭になることを決心していた。父親は季節労働者のために自宅にいる日はほとんどなかった。その後、父親は定職を得たものの、非常に貧しい家庭であった。 1923年にフェルトレの神学校に入ったが、後にベッルーノ教区の神学校に移って学んだ。このころにはイエズス会に入会しようとするが、神学校のジョズエ・カッタロッシ (Giosue Cattarossi) 司教には、入会を認められなかった。1935年7月7日にベッルーノの聖ピエトロ教会で司祭に叙階された。 第二次世界大戦後にはベッルーノ教区神学校の教授になり、その後1958年にヨハネ23世によってヴィットリオ・ヴェネトの司教に任命された。 司教に任命された後もサン・マルティーノにある粗末な古城に住み、質素な生活を続けた。なお、この司教時代におこなわれた第2バチカン公会議には、全会期を通じて参加した。 1970年にヴェネツィアの総大司教に任命され、同地域の貧困層や障害者の救済、さらに発展途上国への支援に尽力した。なお、「聖職者にならなければジャーナリストになっていた」とよく周辺に話しており、実際にこの頃から新聞や雑誌への投稿を数多く行うなど、積極的に言論活動を行っていた。 そうした中でも清貧の精神を常に失わず、総大司教に任命された時には信者達からの100万リラの寄贈金があったが、「私がこの地に来た時はポケットに5リラしかありませんでした。ですから去る時も5リラしか持ちません」と語り、全額を寄付した。 1972年に、ルチャーニが総大司教を務めていたヴェネツィアでは、聖職者や低所得者層への低金利融資を行っていたカットーリカ・デル・ヴェーネト銀行(Banca Cattolica del Veneto)が、大規模な陰謀に巻き込まれていた。
生涯
生い立ち
聖職者ベッルーノ教区神学校教授時代(1947年)ヴィットリオ・ヴェネト司教時代(1964年)
総大司教
カットーリカ・デル・ヴェーネト銀行売却
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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