ヨハネス・ロイヒリン
人物情報
生誕 (1455-01-29) 1455年1月29日
プフォルツハイム
死没 (1522-06-30) 1522年6月30日(67歳没)
シュトゥットガルト
学問
研究分野神学、聖書、古典ギリシャ語、ヘブル語
主な指導学生フィリップ・メランヒトン
主要な作品『De Rudimentis Hebraicis』 『De Arte Cabbalistica』
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ヨハネス・ロイヒリン(Johannes Reuchlin、1455年1月29日 - 1522年6月30日)は、ドイツのユマニスト、ネオプラトニスト、古典学者。 ドイツ (ヴュルテンベルク伯領)のバーデン=ヴュルテンベルクのプフォルツハイムで生まれた。父はドミニコ会の修道士であった。親族にフィリップ・メランヒトン(1497年 - 1560年)がいる。後年、ロイヒリンは43歳年下だった若き日のメランヒトンにユマニスムの教えを手ほどき、ハイデルベルク大学に通わせ、さらに姓をギリシア語名に改名させたのもロイヒリンだった。 ヴュルテンベルク伯領フライブルク・イム・ブライスガウにあるフライブルク大学で哲学や修辞学を修める。次いでドイツのテュービンゲンに赴き、 さらにフランスのパリ、ポワティエ、オルレアンや、スイスのバーゼルに遊学してローマ法や古典ギリシャ語を学び、最終的にバーゼル大学で学位を取得した。1485年に法律家となり、ヴュルテンベルク宮廷やバーデン宮廷に仕えて司法や立法をつかさどる[1]。 ヴュルテンベルクのエーバーハルト伯の求めに応じてイタリアに外遊、現地でヘブル語を初めて学び、それからヘブル語の写本を収集した。帰国後、エーバーハルト伯が開学したテュービンゲン大で古典ギリシャ語や法学を教えた。 当時すでに古典ギリシャ語の権威だったロイヒリンは1492年に本格的にヘブル語の研究を始め、それからヘブル語文法書『De Rudimentis Hebraicis』を刊行[2]。ピコ・デラ・ミランドラやマルシリオ・フィチーノの影響からカバラを学び始める。生涯にわたりヘブル語やカバラ研究に捧げたロイヒリンはのちにユダヤ人やユダヤ教を擁護して非難を浴びる。またロイヒリンは聖書を原典から研究し、ウルガタの権威に疑問を持つ。一連の研究から聖書主義を唱え、信仰は内心のみと提唱した。 1511年、ロイヒリンのヘブル語研究は論争の対象になった。ユダヤ教からカトリックに改宗したドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェッファーコルンはヘブル語の書籍に対する批判キャンペーンを始めた[3]。ロイヒリンはローマ教皇やバチカンから批判された。ウルリヒ・フォン・フッテン、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパといったドイツのユマニストはロイヒリンを擁護、ドミニコ会に対抗した。ロイヒリンは1513年に異端として告発され、宗教裁判所でロイヒリンは激しく抗弁した。はじめ有罪のちに無罪を言い渡されさらにそれから紆余曲折した。このころ1517年にヴィッテンベルクでマルティン・ルターが立ち上がり宗教改革が始まったが、ロイヒリンはルターの宗教改革を痛烈に罵倒、反駁の論陣を張った。ロイヒリンは聖書主義者であり、大方ロイヒリンはプロテスタンティズムに傾いていると考えられていたが、しかし、けっしてローマ・カトリック教会を離れたわけではなかった[4]。 ロイヒリンは現地の諸侯に招かれてインゴールシュタット大学でヘブル語やギリシャ語の教鞭をとった。晩年に『De Arte Cabbalistica』を発表[5]。ルターの宗教改革が始まったその5年後の1522年にシュトゥットガルトで死去、ドナウ川伝いの丘にあるヴァルハラ神殿に祭られた。
目次
1 半生
2 関連項目
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク
半生
関連項目
ルネサンス
脚注^ ⇒Jewish Encyclopedia
^ ⇒The Columbia Encyclopedia, 6th ed.
^ ⇒Encyclopedia of World Biography
^ Encyclopedia Britannica
^ ⇒The Concise Oxford Dictionary of World Religions
参考文献
宗教改革者の群像、 目次 ヨハンネス・ロイヒリン 日本ルター学会 編訳 知泉書館
宗教改革を生きた人々 神学者から芸術家まで、目次 ヨハンネス・ロイヒリン 菱刈 晃夫訳, 木村 あすか訳
外部リンク
⇒原文、資料集、テキスト