ヨハネス・ラウ
Johannes Rau
ドイツ連邦共和国
第8代連邦大統領
任期1999年7月1日 – 2004年6月30日
出生1931年1月16日
ドイツ国、ヴッパータール-バルメン
死去 (2006-01-27) 2006年1月27日(75歳没)
ドイツ、ベルリン
政党GVP
ヨハネス・ラウ(Johannes Rau, 1931年1月16日 - 2006年1月27日)は、ドイツの政治家。所属政党はドイツ社会民主党。ノルトライン=ヴェストファーレン州の州首相(1978年 - 1998年)。第8代連邦大統領(1999年7月1日‐2004年6月30日)。
国民的人気が高く、移民・難民受け入れに関しても積極的な発言を続け、ドイツ・トルコ間の親善にも尽力した。また2000年にドイツの元首としては、初めてイスラエル国会でドイツ語の演説をした。これ以外にキリスト教的倫理観の立場からクローンなどの生命倫理に関する問題への発言も多かった。 生まれはヴッパータール-バルメン 。プロテスタント一家の5人兄弟の3男として生まれた。ラウの父は食料雑貨商を営み、副業としてプロテスタントの説教師をしていた。学校をさぼりがちだったラウに対する父親の意見により1948年にギムナジウムを中退し、1949年にヴッパータールとケルンの出版会社に見習いとして勤め始めた。また、ヴェストフェーリシェ・ルントシャウ新聞(Westfalischen Rundschau)で働いていたことも知られている。見習いを終えた後、1952年からヴッパータールで出版関係の仕事に就き、1953年にヴィッテンの小さな出版社で編集者になる。その後Jugenddienst-Verlag(出版社)に勤務、1965年には社長になった。1953年に青年の自己との対峙とイエスとの出会いが書かれた2つの短編小説、『Keine spielt wie Gisela』と『Klaus und das Feuer』を書き、実名で発表したこともある。 1952年に初代連邦内務大臣であるグスタフ・ハイネマンはドイツ再軍備に対する抗議から大臣を辞し、2年後には設立に携わったキリスト教民主同盟(CDU)を離党した。その後全ドイツ人民党
目次
1 経歴
1.1 生い立ち
1.2 SPD、州首相
1.3 連邦大統領
1.4 家族・余生
2 表彰
2.1 名誉博士号
2.2 名誉市民
2.3 その他
3 著書
4 外部リンク
経歴
生い立ち
SPD、州首相 州首相時代のラウ(1986年、ドイツ連邦議会選挙時)
1958年、ラウはSPDの下部組織・社会主義青年団(Jusos)のヴッパータール地区代表に就任(1962年まで)。同年ノルトライン=ヴェストファーレン州州議会選挙に立候補し初当選。のちに大統領となる1999年までこの議席を保持した。1962年から党議員団に加わり、67年にはその代表に就任。同時に1964年から1978年までは故郷ヴッパータール市参事会に属し、1969年から70年には同市の市長を務めた。1968年、SPD連邦幹事に選出。1973年からSPDのノルトライン・ヴェストファーレン州の党幹事会に加入、77年から98年までは党の州代表を務めた。1978年にはSPD中央委員、1982年には副党首に就任。
1970年、ノルトライン・ヴェストファーレン州のハインツ・キューン内閣に科学研究相として初入閣。その在任中、同州には数多くの大学が新設された(ヴッパータール大学、ハーゲン通信大学など)。1972年に芸術家でデュッセルドルフ芸術アカデミー教授のヨーゼフ・ボイスが学園闘争を起こした際は話し合いをもったが折り合わず、これを馘首している。1978年、キューン州首相の引退を受け、その後継として州首相に就任した。州首相である彼の指導下で、SPDは1980年、1985年、1990年の州議会選挙で議席の過半数、絶対多数を獲得し、強固な地盤を守った。とりわけ1985年の選挙は得票率52.1%で、同州のSPDの歴史の中で最高記録である。
1982年10月からの一年間と1994年11月からの一年間、ラウは連邦参議院議長を兼任した。長期政権を維持したラウは、ヴィリー・ブラント、ハンス=ヨッヘン・フォーゲル、ビョルン・エングホルム、ルドルフ・シャーピング、オスカー・ラフォンテーヌ、ゲアハルト・シュレーダーと6代ものSPD党首の下で副党首を務めた。1987年の連邦議会選挙の際には連邦首相候補として現職のヘルムート・コールに挑んだが敗れた。エングホルムが辞任した1993年には臨時代理党首も務めている。1998年5月28日、ヴォルフガング・クレメントに跡を譲って20年に及ぶ州首相職を辞任した。州の党代表職はフランツ・ミュンテフェーリングが継いだ。彼の州首相在任20年間に同州は他州に比べて明らかに社会的・経済的・技術的に後れを取るようになったが、これはラウがSPDの支持基盤である労働組合などに配慮した結果、炭鉱など旧態依然とした産業構造を守りすぎたためであると保守政治家に批判された。しかしドイツ産業の構造変化はこの州内にとどまる問題ではなく、ラウの施策にその原因を帰すのは不当とする意見もある。 SPDの重鎮であるラウは1994年に同党の連邦大統領候補となったが、CDUが擁立したローマン・ヘルツォークに敗れた。連邦政府がSPDと同盟90/緑の党の連立政権に交代して間もない1999年、ラウは再びSPDの連邦大統領候補となった。このときCDUは対立候補としてテューリンゲン州の科学大臣を務めていたダグマー・シパンスキー、そして民主社会党 (PDS) はラウの妻の叔母にあたるウタ・ランケ=ハイネマンという、共に女性候補を擁立した。1999年5月23日、ラウは二度目の決選投票で当選し、7月1日に第8代連邦大統領に就任した。 連邦大統領としてのラウは、演説では自分の言葉で国民に語りかけ、そのテーマは移民受け入れ問題や生命倫理、グローバリゼーションなど社会的なものが多かった。また象徴的役割の連邦大統領としては異例なほど率直な言葉で、政治家や財界に責任感や名誉の尊重を要求した。たとえば2002年6月22日、ラウは内政に容喙しないという連邦大統領の慣例からすれば異例なことに、きわめて厳しい言葉で移民法案可決の取扱いに関する連邦参議院での与野党の紛糾を批判した。これは「対立ではなく和解を」というラウの信念に基づく、移民や難民受け入れを支持する姿勢から発したものだった。連邦憲法裁判所はラウの意向とは逆に可決無効の裁定を下している。 ドイツの連邦大統領には実権はないものの、国家元首として76回の外遊を行った。2000年2月16日には訪問先のイスラエル国会(クネセト)で初めてドイツ語で演説した。ラウはホロコーストについて謝罪し、許しを請うた。ただしイスラエルの国会議員の一部には、少数ながらドイツ語での演説に抗議して議場を去った者もいた。
連邦大統領