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ポンペ病を報告したヨアネス・カッシアヌス・ポンペ
(オランダ語版)とは異なります。ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト
ポンペの肖像
生誕1829年5月5日
オランダ、ブルッヘ
死没1908年10月7日(79歳)
ベルギー、ブリュッセル
国籍オランダ
職業医師
著名な実績長崎医学伝習所(後の長崎大学医学部)の設立および教授
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ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829年5月5日、ブルッヘ - 1908年10月7日、ブリュッセル)は、オランダ海軍の二等軍医。ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学び軍医となった。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた。日本で初めて基礎的な科目から医学を教え、現在の長崎大学医学部である伝習所付属の西洋式の病院も作った。また、患者の身分にかかわらず診療を行ったことでも知られている。日本には1862年(文久2年)まで滞在し、その後はオランダに戻った。後年、日本での生活を振り返って「夢のようであった」と発言している。
長崎奉行所西役所医学伝習所において医学伝習を開始した1857年11月12日(安政4年9月26日)[1]は、近代西洋医学教育発祥の日であり、現在長崎大学医学部の開学記念日とされている[2]。
医学伝習所時代 ポンペを囲む医学生、前列ポンペの左は松本良順
ポンペは長崎海軍伝習所の第二次派遣教官団であったカッテンディーケに選任され、松本良順の奔走により作られた医学伝習所で、教授として日本初の系統だった医学を教えることになった[3]。彼の元で、明治維新後初代陸軍軍医総監となった松本良順を始めとして、司馬凌海、岩佐純、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、佐々木東洋、入澤恭平など、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たした面々が学んだ。
1855年(安政元年)に第一次海軍伝習の教師団が来日し、軍医のヤン・カレル・ファン・デン・ブルークが科学を教えたが、この授業はまだ断片的なものであった。この時、筑前藩の河野禎造は、オランダ語の化学書である『舎密便覧』を著している[注釈 1]。
その後、1857年(安政3年)に第二次海軍伝習によりポンペが来日し、松本良順の奔走により医学伝習所ができ、ポンペはその土台となる基礎科学から一人で教え始める。1857年11月12日のことで、長崎大学医学部はこの日を創立記念日としている[4]。この時は長崎の西役所内で、松本良順と弟子12名に初講義を行った。後に学生の数が増えたため、西役所から、大村町の高島秋帆邸に教室を移した[5]。
ポンペは物理学、化学、解剖学、生理学、病理学といった医学関連科目をすべて教えた。