ヨハネス・ブラームス
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ヨハネス・ブラームス
Johannes Brahms

基本情報
出生名Johannes Brahms
生誕1833年5月7日
出身地 自由ハンザ都市ハンブルク
ドイツ連邦[注釈 1]
死没 (1897-04-03) 1897年4月3日(63歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
ジャンルロマン派音楽
職業作曲家
ピアニスト
指揮者
担当楽器ピアノ
活動期間1843年 - 1897年
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ヨハネス・ブラームス(: Johannes Brahms、1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、ドイツ作曲家ピアニスト指揮者J.S.バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)と共にドイツ音楽における三大Bとも称される。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没する。作風は概してロマン派音楽に属するが、古典主義的な形式美を尊重する傾向も強い[1]

ベートーヴェンの後継者ととらえる人もおり、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の『交響曲第1番 ハ短調』を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評した[2]
生涯ハンブルクの生家

1833年5月7日にハンブルクで生まれた。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、市民劇場のコントラバス奏者だった[3]。後年になってブラームスが語った話によると、家の表札には「Brahmst(ブラームスト)」と書かれていたという[4]。しかし子供の頃から「ブラームス」と頭に刷り込まれていた彼は、最後の「t」が嫌で、表札をしょっちゅう指でこすり、しまいには消してしまった。そのせいで父に届いた親方検定合格証は「ブラームス」と書かれたものになった[4]。彼曰く、「親父がtを取るように、少しずつ慣れさせたんだよ[4]」このブラームスの話が冗談なのか実話なのかは不明だが、実際に「Brahmst」と書かれた1849年4月14日の「音楽の夕べ」のプログラムが残っている[5]

7歳の時からオットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルにピアノを学ぶようになった[6]。ブラームスはピアノの早熟な才能を現し、10歳の時に初めてステージに立った。この時彼の演奏を聴いたアメリカの興行師がアメリカ演奏旅行を提案した。両親は賛成したが、コッセルはこれに反対し、より高度な音楽教育が受けられるように、コッセルの師である作曲家でピアニストのエドゥアルト・マルクスゼンに師事させた[6]。しかしブラームスの生家は貧しかったため、13歳のころからレストラン居酒屋でピアノを演奏することによって家計を支えた[7]。ブラームス自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが、同時代の名手と比べると地味な存在であり、後に作曲に専念すると決意してほとんど演奏活動からは手を引く。しかし1859年1881年には、『ピアノ協奏曲第1番 ニ短調』(作品15)と『ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調』(作品83)の初演を自ら行っている。若き日のブラームス(1853年)

マルクスゼンに師事し始めたころからブラームスは作曲を始めたものの、この時期の作品は厳しい自己批判のため破棄され現存しない[8](現存する最古の曲は、1853年ゲッティンゲンの音楽監督のアルノルト・ヴェーナーの音楽帳に記入したピアノ曲「アルバムのページ Albumblatt」である[9])。1853年にハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼした。この旅行で2人はヨーゼフ・ヨアヒムに会いに行き、ヨアヒムはブラームスの才能を称賛した。ブラームスもヨアヒムに敬意を抱き、2人の親交は以後も長年にわたり続いた[10]。次いでヨアヒムの勧めで2人はフランツ・リストに会いにヴァイマールに行ったが、リストとはそれほどうまくいかなかった。ここでブラームスとレメーニは仲たがいを起こし、ブラームスはヨアヒムの元に戻った[11]。ヨアヒムら友人たちがロベルト・シューマンに会うことを強く勧めたため、9月30日にブラームスはデュッセルドルフのシューマン邸を訪ねた[12]

この出会いは両者にとって幸福なものだった。シューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け、『新しい道』と題する評論を『新音楽時報』に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、ブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスもまたシューマンを強く尊敬し、シューマンの没後もその敬意は変わらなかった。またこの時、ブラームスは14歳年上のシューマンの妻クララと知り合い、生涯に渡って親しく交流を続けることになった。しかしこの頃すでにシューマンは精神疾患に悩まされており、1854年2月には投身自殺未遂を起こしてボン近郊の療養施設に収容された。ブラームスはこれを聞くとデュッセルドルフに駆けつけ、シューマン家の家政を手伝い一家を助けた。こうしたなかでブラームスとクララの距離は近づき、1855年ごろのクララへの手紙の中では彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと推測される時期もあった。しかしブラームスはシューマンも強く尊敬しており、1856年にシューマンが死去したのちも彼女と結婚することはなかった。とはいえシューマン一家とは生涯にわたり親交を続けた。1857年にはリッペ=デトモルト侯国に音楽家として招かれ、1859年まで3年間にわたり秋から年末にかけてデトモルトの侯国宮廷で勤務した[13]。また1858年にはアガーテ・フォン・ジーボルト(フィンランド語版)(Agathe von Siebold いわゆる「シーボルト事件」で著名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの従弟の子に当たる)と婚約しながら、翌1859年には「結婚には踏み切れない」との理由で一方的に破談にしている[14]

1862年ウィーンを初めて訪れた後、ブラームスはウィーン・ジングアカデミー(ドイツ語版、英語版)の指揮者としての招聘を受けウィーンに居着くことになる[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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