ヨハネス・グーテンベルク
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「グーテンベルク」と「グーテンベルグ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「グーテンベルク (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ヨハネス・グーテンベルク
Johannes Gutenberg
ヨハネス・グーテンベルク
生誕1398年
神聖ローマ帝国
マインツ選帝侯領マインツ
死没1468年2月3日
神聖ローマ帝国
マインツ選帝侯領マインツ
親父:フリーレ・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデン
母:エルゼ・ヴューリヒ
業績
成果活版印刷技術の考案

ヨハネス・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデン・ツム・グーテンベルク(ドイツ語: Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg、1398年[1]頃 - 1468年2月3日)は、ドイツ出身の金細工師印刷業者である。印刷に改良を加えた活版印刷技術の発明者といわれ、広く知られている。

グーテンベルクの古い記録は、裁判記録以外ほとんどなく、活版印刷技術の真の発明者は誰かという論争が古くから行われてきたが、グーテンベルクとする説が最も有力である[2]1445年までに活版印刷技術を考案し[3][4][5]、その機器の実用に成功して、自ら印刷業・印刷物出版業を創設したといわれる[6]。金属活字を使った印刷術を発明したことで印刷革命(英語版)が始まり、それが一般に中世で最も重要な出来事の1つとされている[注釈 1]。活版印刷はルネサンス宗教改革啓蒙時代科学革命の発展に寄与した[7]

1439年頃にヨーロッパで初めて活字による印刷を行った。活字量産方法の発明、油性インクの採用、当時使われていた農耕用スクリュープレスのような木製印刷機の採用など、様々な面で印刷に貢献している。真の画期的発明といえるのはそれらを組み合わせて実用的システムとしたことであり、それによって本の大量生産を可能にし、印刷業者にとっても読者にとっても経済的に成り立つようにした。グーテンベルクの活字生産方法の目新しい点は、古くから活字合金の発明とパンチ法と呼ばれる鋳造技法といわれていた。紙をいくつも並べて大量生産を目指すために一般人協力の元たくさんの試行錯誤が行われた。それまでヨーロッパでの本の生産は手書きでの「書き写し」か木版印刷であり、活版印刷はヨーロッパでの本生産に一大変革を起こした。活版印刷具は急速にヨーロッパ各地に普及し、さらに世界中に広まっていった。印刷技術は羅針盤火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられる。
生い立ちグーテンベルク(16世紀の銅版画)

ドイツの都市マインツの上流階級の商人フリーレ・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデンとその2番目の妻で商店主の娘エルゼ・ヴューリヒの間に末っ子として生まれた。フリーレはマインツ大司教配下の金細工師だったとする記述もあるが、織物の貿易商だったとする説が最も有力である[8]。ヨハネスの生年は明らかではないが、1398年ごろと見られている。

技術史家のジョン・リーンハルト(John Lienhard)は「グーテンベルクの生い立ちは謎に満ちている。彼の父は教会の造幣所で働いていた。グーテンベルクは金細工の取引を見ながら育った」と記している[9]。歴史家のハインリヒ・ヴァラウ(Heinrich Wallau)もこの説を支持しており「14世紀から15世紀にかけて、彼(の子孫)は大司教の造幣所の親方の地位を世襲していた。そのため彼らが金属加工の知識や技術に長けていたことは確実である。彼らは鋳造用の金属を造幣所に供給し、様々な貨幣の両替を行い、偽造事件の際には審問官として働いた」と記している[10]

ヴァラウはさらに「彼の姓は父や先祖が住んでいた家 'zu Laden'、'zu Gutenberg' に由来する。ゲンスフライシュの家系を遡れば、13世紀にはマインツの貴族だった」と記している[10]。マインツの貴族はしばしば所有する家にちなんで名付けられた。1427年頃、一家の住む家 zu Gutenberg にちなんだ姓「ツム・グーテンベルク」が初めて記録されている[8]13世紀以降、グーテンベルク一族は冶金業と商業に従事していた。父母の間には長男フリーレ(後に市参事会員)、長女エルゼが生まれ、次男として生まれたのがヨハネスであった(グーテンベルクの人生についてはほとんど知られていなかったが、19世紀にアロイス・キュッペル(Aloys Kuppel)博士が初めて本格的な研究を行い、以降、教会や市の記録をもとにしてグーテンベルク一族の研究が進められた。)。

当時のマインツでは市民と貴族の間で争いが繰り返されていた。その煽りでグーテンベルク一家は1411年以降、他の貴族たちと同じように、何度もマインツを離れて母が相続した地所を持っていたエルトヴィレ・アム・ラインへ逃れることを余儀なくされた。ヴァラウは「彼の若い頃について判っていることは、彼が1430年にはマインツにいなかったということだけである。彼の一家と何らかの繋がりがあったと思われるシュトラースブルクに政治的理由から移住していたと推定される」と記している[10]。その頃、ヨハネスがエルフルト大学に学んだ可能性もあり、1418年の在籍者として Johannes de Altavilla という名前が記録にあり、Altavilla とはラテン語でエルトヴィレ・アム・ライン(de:Eltville am Rhein)を意味する[11][12]

その後15年間のことはよくわかっていない。1419年に父フリーレが死去した際の遺産相続についての記録で言及がある。一家がマインツに戻ることができたのはようやく1430年になってからと推測されている。成人したヨハネスは金属加工の腕を磨き、貨幣鋳造職人としてその手腕を高く評価されていたが、母方の祖父が貴族でないという理由で貨幣鋳造業ギルドへの加入が認められなかったという。グーテンベルクは1433年に母エルゼが死去してから、兄姉との関係がうまくいっていなかったようで、それが原因なのか1434年以降シュトラースブルクに移り住んでいる。

1434年3月にグーテンベルクが書いた書簡があり、母方の親戚の住むシュトラースブルクに住んでいることが書かれている。彼はまた金細工師としてシュトラースブルクの民兵組織にも登録されている。1437年には裕福な商人に宝石研磨の技術を教えていた証拠もあるが、どこでそのような技術を身につけたのかは不明である。同じころ、シュトラースブルク出身の女性との婚約破棄に関連した訴訟に名前が記録されている[13]。実際に結婚したかどうかは記録されていない。
印刷業"フランクフルト〔ママ〕で見た件の驚くべき男について私宛に書き送られてきたことは、全て真実でした。完全な聖書全体を見たわけではなく異なる巻の少数の折丁を見ただけです。書体は非常にきちんとしていて、読みやすいものでした。閣下におかれましても苦も無く、しかも眼鏡なしでお読みになれることでしょう。"後の教皇ピウス2世がカルバハル(英語版)枢機卿に宛てた手紙、1455年3月[14]1568年に描かれた印刷所の様子。一時間に240枚を印刷することができた。[15]

1439年頃、グーテンベルクはアーヘンの巡礼者に(聖火を写し取るといわれていた)研磨した金属鏡を売るという事業に出資を募り、財政的問題を生じた。1439年、同市ではカール大帝の遺品を展示する計画があったが、深刻な洪水が発生したため1年延期された。そのため集めていた資金の使ってしまったぶんを返せなくなったのである。出資者を満足させるため、グーテンベルクは「秘密」を共有すると約束したといわれている。この秘密が活字による印刷のアイデアだったのではないかと言われている[16]


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