ヨハニス・デ・レーケ
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ヨハネス・デ・レーケ
ヨハネス・デ・レーケ像(船頭平河川公園
生誕1842年12月5日
 オランダ コレインスプラート(オランダ語版)
死没 (1913-01-20) 1913年1月20日(70歳没)
 オランダ アムステルダム
親Pieter de Rijke
Anna Catharina Liefbroer
業績
専門分野土木工学
プロジェクト#関係した土木構造物参照
成果#関係した土木構造物参照
受賞歴勲二等瑞宝章
勲爵位(ライデル)(オランダ語版)(1911年)

ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de Rijke、1842年12月5日 - 1913年1月20日)は、オランダ人の土木技師。ヨハネス・デ・レーケ、ヨハネス・イ・デレーケとも。いわゆるお雇い外国人として日本に招聘され、砂防治山の工事を体系づけたことから「砂防の父」と称される。

日本の土木事業、特に河川改修や砂防における功績から、日本の農林水産省ウェブサイトに土木史の偉人の一人として取り上げられている[1]
目次

1 来歴

1.1 幼少時代

1.2 内務省お雇い技師

1.3 勅任官技術顧問から内務省退官まで

1.4 中国河川改修技師長以後


2 その他

3 関係した土木構造物

4 デ・レーケに関する著作物

5 舞台化

6 脚注

7 外部リンク

来歴
幼少時代 生誕地のコレインスプラート(オランダ語版)にある胸像

デ・レーケは7人兄弟の3人目としてオランダのコレインスプラート(オランダ語版)に生まれる。兼業農家である築堤職人の息子として育ち、オランダ内務省技官出の水理学者であるヤコーブス・レブレットに出会ったことで土木の技術者としての道を歩み始めた。子供のいなかったレブレットは、最初の教え子でもあったデ・レーケに数学力学水理学など、土木工学に関する学問を教え、その勤勉な姿勢を大変に可愛がったという。
内務省お雇い技師

1873年明治政府による海外の学問技術の国内導入制度によって、内務省土木局に招かれ、大学でもエリートだったG.A.エッセルらと共に来日した。エッセルは1等工師、デ・レーケは4等工師[2]として遇せられ、淀川の改修や三国港の改修などに関わり、エッセルは主に設計を、デ・レーケは施工や監理を中心に担当した。

後に、ファン・ドールンやエッセルの後任として、内務省の土木技術の助言者や技術指導者として現場を指揮することになる。氾濫を繰り返す河川を治めるため、放水路や分流の工事を行うだけでなく、根本的な予防策として水源山地における砂防治山の工事を体系づけ、また全国の港湾の建築計画を立てた。特に木曽川下流三川分流計画には10年にわたり心血を注ぎ成功させた。木曽三川分流計画に関して当初、二川分流しか考えていない、木曽川の土砂対策に重きを置いた木曽川と長良揖斐に分ければよいと考えていたが、片野萬右衛門(かたのばんえもん)という老人の三川分流案の進言に感動し、三川分流に踏み切ったという。日本中の現場にも広く足を伸ばし技術指導や助言も行っている。これらの業績は高く評価され、1891年、現代の内務省事務次官に近い内務省勅任官技術顧問の扱いになる。これは「天皇から任命を受けた内務大臣の技術顧問・相談役」という立場である。

建設事業の竣工において、事業関係者は招待されたり記念碑に連名されるのが慣例とされているが、デ・レーケは関連した全土木工事において一度も招待を受けたことがなく、連名の記念碑も無い。これは、お雇い外国人はあくまでも裏方であり、任務は調査と報告書提出のみであって、それを決定し遂行するのは日本側である、という事情の表れとされている。
勅任官技術顧問から内務省退官まで

後に、工科大学校(現・東京大学工学部)を始め、欧米諸国の大学で水文学をはじめとする高等教育を受けた内務省土木局の日本人技術者が台頭したことにより、徐々に活躍の場を失うも、内務省勅任官技術顧問としての責務を全うした。都合30年以上日本に滞在し、1903年に離日。在日中に提出した報告書は57編に上り、2度受勲され、帰国に当たっても「日本の土木の基礎を築いた」として、さらに勲二等瑞宝章を授与された。現在の価格にして4億円相当とされる退職金が支給され、当時の上官で内務省土木局長だった古市公威ら高級官僚による労いもあったとされる。


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