ヨゼフ・フォン・フラウンホーファー(Joseph von Fraunhofer、1787年3月6日[1] - 1826年6月7日[1])は、ドイツの光学機器製作者、物理学者である。太陽光のスペクトルの中のフラウンホーファー線、光学分野のフラウンホーファー回折に名前を残している。ドイツの応用研究と技術移転の機関「フラウンホーファー協会」は彼の名前に由来する。 バイエルンのシュトラウビング(Straubing
生涯
独学とウッツシュナイダーの教育と、天文学者であったU・シーク(U.Schiegg)の感化によりかなりの知識を身につけ、1806年に数学機械研究所に入った[1]。ウッツシュナイダーからガラス研磨の仕事を与えられ、1807年にはベネディクトボイエルンの工場でガラス製造をしていたギナンの研磨助手に指名されたがギナンとの仲はうまくいかなかった[1]。1809年には全く出資していなかったにもかかわらず研究所の経営に参画し名称も「ウッツシュナイダー・ライヘンバッハ・フラウンホーファー光学研究所」に改名されていた[1]。ギナンの供給する光学ガラスがフラウンホーファーが希望する屈折率を持っていなかったことが1811年にわかり、破局に至った[1]。ウッツシュナイダーが仲裁に入って丸く収め、ガラスもフラウンホーファーも製造させることになり、結局フラウンホーファーが工場の全てを切り回すことになった[1]。光学ガラスの均質性は向上し、1813年頃にプリズム分光器を製作し1814年頃ウイリアム・ウォラストンとは別に太陽スペクトルに約700本の暗線を発見した[1]。詳細は「フラウンホーファー線」を参照
1817年に太陽スペクトルの暗線を基準にしてガラスの屈折率を測定することとし、これは光学技術上特記すべき業績とされる[1]。
1817年5月3日バイエルン科学アカデミーの会員に指名[1]され、1821年に特別会員に推薦[1]され、カール・フリードリヒ・ガウスなど多くの名士と知り合った[1]。
1819年エストニアタルトゥのドルパート天文台屈折望遠鏡用に有効口径24.4センチメートル(以降cm)、焦点距離432cm、F17.7の対物レンズを完成[1]し、工芸学校組合員[1]とアカデミー名誉教授[1]の称号を受けた。またこの年ガラスに金メッキをして300本/ミリメートルの平行線を刻んだ格子を製作し光波の回折を研究[1]、当時まだ確立していなかった光の波動説を支持した[1]。
1824年には貴族に叙せられ姓にフォンを名乗ることを許されるとともに、ミュンヘン名誉市民に推戴[1]された。
1825年夏の終わりに肺結核への感染が判明[1]、なおもクラウンガラスの製造を企図した[1]が、1826年ミュンヘンで[1]39年の短い生涯を閉じた。