ヨウェリ・ムセベニ
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ヨウェリ・カグタ・ムセベニ
Yoweri Kaguta Museveni

2012年のムセベニ
ウガンダ共和国
第7代 大統領
任期1986年1月29日
副大統領サムソン・キセッカ(英語版)
スペシオーザ・カジブウェ(英語版)
ギルバート・ブケニャ(英語版)
エドワード・セカンディ(英語版)
ジェシカ・アルポ(英語版)
首相サムソン・キセッカ(英語版)
コスマス・アジェボ(英語版)
キント・ムソケ(英語版)
アポロ・ンシバンビ
アママ・ムババジ(英語版)
ルハカナ・ルグンダ(英語版)
ロビナ・ナッバンジャ(英語版)
アフリカ統一機構
第28代 議長
任期1990年7月9日1991年6月3日

出生 (1944-09-15) 1944年9月15日(79歳)
ウガンダ保護領(英語版)(現 ウガンダ)、ントゥンガモ県
政党国民抵抗運動 (NRM)
配偶者ジャネット・ムセベニ(英語版)

ヨウェリ・カグタ・ムセベニ(Yoweri Kaguta Museveni,  発音[ヘルプ/ファイル], 1944年9月15日 - )は、ウガンダの政治家。現在、同国大統領(第7代、1986年1月29日 - 現職)。ムセヴェニとも表記される。

イディ・アミン政権の転覆や、第二次ミルトン・オボテ政権への反乱に関与し1986年1月26日カンパラを制圧、政権を掌握し1月29日に大統領に就任、以来35年以上もの間、大統領を務めている。北部を例外として内戦と腐敗の続いたウガンダで安定した政治と経済成長をもたらした。彼の在任はアフリカでのHIV/AIDSへの国家的対応の最も効果的な事例の一つに数えられる場合もある。1990年代半ばムセベニは西側の新世代のアフリカの指導者に選ばれた。第二次コンゴ戦争などの大湖沼地帯の紛争にも深く関わっている。ウガンダ北部では反乱により人道的な危機が続いている。

2006年には大統領の三選禁止規定の撤廃とそれに続く約四半世紀ぶりの選挙で、野党からの批判をかわし約60%の得票で三選を果たし、内外の関心を集めた。以降も5年おきの大統領選挙で当選を続け、直近では2021年1月14日執行の選挙で六選を果たしている。
生い立ちントゥンガモ県の位置

1944年9月15日にウガンダ保護領(英語版)南西部のントゥンガモ県でアンコーレ族の家庭に生まれた[1](ただし、1945年または1946年生まれの可能性も指摘されている[2])。姓のムセヴェニはウガンダ人の多くが第二次世界大戦中に仕えたイギリス植民地軍の王立アフリカ小銃隊の第7大隊に因んだ「第7大隊の男の息子」という意味である。ミドルネームは牛飼いである父親のエイモス・カグタからもらい、母はエステリ・コクンデカ、弟にサレム・サレーとして知られるケイレブ・アカンドゥワナホと妹にバイオレット・カジュビリがいる。ムセベニはキャマテ小学校からムバララ高校及びナタレ学園へと進み、その頃に福音主義のクリスチャンになった。1967年タンザニアダルエスサラーム大学に進み経済学政治学などを学び、過激な汎アフリカ主義活動に参加しながら古典的マルクス主義者となった。彼は大学で大学生アフリカ革命戦線を結成し、ポルトガル領モザンビークFRELIMO支配地域へ学生代表団を率いてゲリラ訓練を受けた。またウォルター・ロドニーに学び、ムセベニはその修士論文として脱植民地後のアフリカへのフランツ・ファノンの革命的暴力の適用性について書いた[3]

1970年ムセベニはオボテ政権の情報機関に加わり、翌1971年1月イディ・アミン大将によるクーデターを受け、タンザニアへ逃れた。アミンとオボテの権力基盤はかなり異なり、民族対立及び地域対立の元になった。オボテは中北部のランゴ族、アミンは北西部のカクワ族出身である。イギリス植民地政府は国内の軍の主力にランゴ族とアチョリ族を当て、南部出身の民族は商業などで活動した。この傾向はクーデター当時まで続いており、アミンはカクワ族とルグバラ族を権力に据え、ランゴ族とその協力者であるアチョリ族を抑圧した[4]
救国戦線とアミン政権の転覆イギリスの植民地時代の保護国。ブガンダとアンコーレの南はタンザニア。

アミンに反対したランゴ族アチョリ族を主力とする亡命軍は、1972年9月にタンザニアからウガンダに侵入し、大損害を被って退けられた。反乱兵の地位はその年の内のタンザニアとウガンダの和平合意でより苦しくなり、ウガンダ攻撃のためにタンザニアの領土を使うことが否定された[5]。ムセベニは1973年の救国戦線 (Front for National Salvation, FRONASA) 結成までの短期間北タンザニアのモシで大学講師をつとめた。同年8月元秘書でスチュワーデスのジャネット・カタハと結婚し後4人の子を儲けた。

1978年10月イディ・アミンはカゲラ州の領有を主張してタンザニアに侵攻した。1979年3月24日から26日にムセベニら救国戦線は反乱兵及び亡命者のモシへの集結を図り、イデオロギーの違いを超えたウガンダ民族解放戦線 (UNLF) が結成された。ムセベニは11人の執行委員の一人に選ばれ、議長にはユスフ・ルレが就いた。同時に28グループの代表からなる国民諮問会議も置かれた。UNLFは4月にアミン政権を打倒するためにタンザニア軍に加わった。ムセベニはUNLF政権の国防相に選ばれた。またムセベニはユスフ・ルレ政権の最年少大臣であった。ムセベニが救国戦線へと募集した部隊は新国軍に吸収された。彼らはムセベニへの忠誠を維持し後の第二次オボテ政権への反乱時にも主力となった。

1979年6月国民諮問会議は内紛によりユセフ・ルレに代えてゴッドフリー・ビナイサを新議長に選んだ。ビナイサも権力闘争で地位を追わることになる。11月にムセベニは国防相から地域協力相へ転任し、ビナイサは軍を掌握しようとした。オイテ・オジョク参謀長を解任しようとしたビナイサはパウロ・ムワンガ、ムセベニ、オケロらのクーデターで逆に軟禁された。ムセベニを副議長とする大統領委員会は12月に総選挙を実施すると発表した。

今日ではよく知られた人物であるムセベニがウガンダ愛国運動 (UPM) を結成したのはこの頃で、オボテのウガンダ人民会議 (UPC)、保守党 (CP)、民主党 (DP) などと戦った。UPCとDPが有力候補であると考えられた。公式結果はUPCの勝利を宣言し、ムセベニのUPMは126議席中の1議席のみを獲得した。投票の信頼性に関し多くの不規則が妥協された。選挙計画では、委員長のパウロ・ムワンガは各候補が別々の投票箱を持つべきとしたUPCの主張を支持した。これは他の政党から投票の操作が容易になるとして猛然と反対された。浮動票がUPCに流れた可能性もあった。一般に親UPCの北部ウガンダの有権者数は反UPCのブガンダと比較して少なかった。不正選挙の疑いがムワンガの公式発表までに広まり、敗北した政党は選挙違反の例を挙げて新政権の承認を拒否した。
ブッシュ戦争(ウガンダ内戦)詳細は「ブッシュ戦争(英語版)」を参照
第二次オボテ政権と国民抵抗軍

ムセベニは支持者とともにバントゥー系が優勢である南部及び南西部の故郷に戻り、民衆抵抗軍 (PRA) を結成した。彼らは第二次オボテ政権とウガンダ民族解放軍 (UNLA) への反乱を企てた。暴動は1981年2月6日に中西部のムベンデ県の軍施設への攻撃で始まった。PRA はユスフ・ルレのウガンダ自由戦士 (UFF) と統合し国民抵抗軍 (NRA) となり、政治部門を国民抵抗運動とした。別の2つの反乱軍・ウガンダ国民救済戦線 (UNRF) と元ウガンダ国軍 (FUNA) も西ナイル地方でアミン支持者の残党により結成され、オボテの軍と交戦した[6]

国民抵抗運動/軍は長期政権のための「10項の目標」(民主主義の回復、治安、国民統合の強化、独立の維持、独立して統合された自律的経済の確立、社会サービスの改善、腐敗と権力濫用の根絶、不平等の縮小、アフリカ諸国との協力、混合経済[7])を掲げた。

1985年7月までにアムネスティ・インターナショナルはオボテ政権下でのウガンダでの死者を30万人以上と見積った。CIAのザ・ワールド・ファクトブックでは10万人以上としている[8]。人権団体は1982年以来の人権状況を改善するように度々抗議を行った。特に人権侵害が目立ったのはウガンダ中央部のルウェロ三角地帯であった。この期間のウガンダからの報告によりオボテ政権は国際的な批判を受け、ムセベニの反政府勢力への海外からの支援を増大させた。ウガンダ国内では北部出身者特にランゴ族とアチョリ族が優勢な UNLA に対抗する暴動への残忍な鎮圧に、NRA と共にウガンダの最大の民族であるブガンダが巻込まれた。ミルトン・オボテはルウェロでの人権侵害を NRA のせいにしたまま2005年に亡命先の南アフリカで亡くなった。


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