ヨイトマケの唄
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「ヨイトマケの唄」
美輪明宏シングル
B面ふるさとの空の下で(オリジナル盤)
兄弟(ソノシート)
ラストダンスは私と(1998年盤)
いとしの銀巴里(2003年盤)
人の気も知らないで(2003年盤)
リリース1965年7月
1965年9月(ソノシート)
1998年12月23日(再発売)
2003年10月1日(再発売)
ジャンル歌謡曲
レーベルキングレコード
朝日ソノラマ(ソノシート)
作詞・作曲美輪明宏
美輪明宏 シングル 年表

メケ・メケ
1957年)ヨイトマケの唄
1965年)湯どうふの唄
1966年


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「ヨイトマケの唄」(ヨイトマケのうた)は、美輪明宏が自ら作詞作曲した1966年のヒット曲。

発表当時は美輪の旧芸名である「丸山明宏」名義だったが、本項では美輪明宏で統一し記述する。
概要

美輪が幼少時に一緒に育った友人の亡き母(父や子供のために懸命に働き続けて亡くなった)を回顧する歌である。主人公の過去には幼少時、母親の職業(地均しの日雇い労働者)がきっかけでいじめを受けた悔しさ、グレそうになりながらも高校と大学を卒業し、高度経済成長期の機械が普及した世の中で立派なエンジニアに成長した姿なども折り込まれている。

「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代に、地固めをする際に、重量のある岩を縄で滑車に吊るした槌を、数人掛かりで引張り上げて落とす時の掛け声であり、美輪によれば、滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声を語源とする。この仕事は主に日雇い労働者を動員していた。そして、楽屋のない銀巴里で出演後に客席に座っていた際に、東大建築工学科に通う学生と知り合いになり、家族のために働く母と、いじめでグレそうになりながらも学びを続け、立派なエンジニアにまで上り詰める子供という一連の物語の着想元になった。

作詞作曲を開始した切っ掛けは、興行主の手違いで行うことになった筑豊嘉穂劇場のコンサートである。当時きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪は、炭鉱町でのコンサートに乗り気ではなかったのだが、炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしている光景を見て衝撃を受け、「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」と感じて、労働者を歌う楽曲を作ると決意したという[1]

初めて発表したのは1964年(昭和39年)、リサイタルにて歌唱。1965年(昭和40年)、NETテレビ木島則夫モーニングショー』の「今週の歌」で発表したところ、非常に大きな反響を呼び、異例のアンコール放送となった。同性愛者であることを公にしてから低迷していた美輪が、この歌がきっかけで再び脚光を浴びることになった。白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し、戦後の復興期の貧しい少年から、高度成長期にエンジニアへと成長した凜々しい青年を演じた美輪の姿は、多くの視聴者の胸を打った。

シングルレコード発売は1965年7月。レーベルはキングレコード。40万枚を売り上げた[2]。同年9月には、朝日ソノラマからソノシートも発売されている。この後も何度か再録音を行っており、発表当時と近年では歌い方や使用楽器など編曲が異なる(1975年録音盤(アルバム『白呪』収録)、2000年録音盤が存在する)。

歌詞が描く世界観と美輪のパフォーマンスによる評価を裏打ちするのは、楽曲自体が、伊藤久男イヨマンテの夜』(1949年)、織井茂子『黒百合の歌』(1952年)に代表される、低音域のドラムを強調した古関裕而の土俗的オルタナティヴサウンドの系譜に位置することである。

発表後間もなくして歌詞の中に差別用語として扱われる「土方」(どかた)「ヨイトマケ」が含まれている点などから、日本民間放送連盟により要注意歌謡曲に指定された事でそれ以降原則として民放では放送されなくなる[3]。この制度自体は1988年に効力を失ったが、最後に改訂された1983年の時点で指定されておらず、それ以前の状況は民放連側の記録がなく不明[4][5]。しかしながら失効後もしばらくの間この制度の影響を受け続けることになる。1985年には、『夏祭りにっぽんの歌』(テレビ東京)で歌唱している。1990年には美輪が『ぴりっとタケロー』(TBS)に出演する際にこの歌を披露する予定だったが、放送局のTBSから歌のカットを求められた。出演依頼があった際、美輪は歌無しの出演を希望したが、制作会社の強い希望で本曲を歌うことになった。ところが、放送日2日前に突然「歌は止めて欲しい」という申し出を受ける。一方的に二転三転する申し出に美輪は憤慨し、出演自体を取り止めた。このことがきっかけで美輪はNHK(後述)以外のテレビで最近まで歌うことを避けていた。

1998年村上“ポンタ”秀一のアルバム『Welcome To My Life』に収録され、泉谷しげるが歌ったカバーバージョンが『ニュースJAPAN』(フジテレビ)で流れたことで久々に民放の電波に乗り、更に2000年には桑田佳祐が自身の番組『桑田佳祐の音楽寅さん ?MUSIC TIGER?』(フジテレビ)でこの曲を歌ったことにより大きな反響を得る。この際、テロップで「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間、封印されてきた。今回のチョイスは桑田佳祐自身によるものであり、このテイクはテレビ業界初の試みである」との説明が付されていた[6] が、以降多くの歌手がテレビでも歌うきっかけとなった。

一方、NHKでは発表当時から一貫して放送自粛の措置はとられておらず、美輪本人による歌唱はもとより、様々な歌手によるカバーも放送されていた。デビュー60年を迎えた2012年には美輪が『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場、本曲をほぼフルコーラスで披露した(楽曲はやや短くアレンジされた[7])。発売から半世紀も経っていたが、SNS上でも若年層を中心に大きな反響を呼んだ。美輪本人は「この歌がヒットした50年前にも紅白出演のオファーがあったが、歌唱時間の問題で辞退した」と回想している。当時の紅白では歌手1人につき3分以内という時間制限が設けられており、6分近くあるこの歌も大幅に歌詞を省略して歌うことをNHKから求められたが、美輪は“歌詞の省略はできない”と頑なに主張し、当時のオファーを辞退せざるを得なかったという[8]
メディア

1994年、『桑田佳祐LIVE TOUR '94“さのさのさ”』で、桑田佳祐が歌唱した。この音源はビデオ/DVD『すべての歌に懺悔しな!! -桑田佳祐 LIVE TOUR '94-』(1994年)に収録されている。

2000年10月13日フジテレビ桑田佳祐の音楽寅さん ?MUSIC TIGER?』で、桑田佳祐が歌唱した。

2000年11月30日?12月2日、Act Against AIDSコンサート '00「桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング」で、桑田佳祐が歌唱した。この音源はベストアルバム『TOP OF THE POPS』(2002年)に収録されている。

2000年12月26日、NHK『そして歌は誕生した(第11集)』で、美輪明宏本人が出演して誕生秘話を語るとともにフルコーラス歌唱した。

2005年10月7日TBS筑紫哲也 NEWS23』のエンディングで、槇原敬之がスタジオライブで歌唱した。放送日前の9月28日に発売されたアルバム『Listen To The Music 2』に収録されている。

2005年11月5日、公開の映画『TAKESHIS'』で、美輪明宏による歌唱があった。ライブハウスのシーンだが、途中から曲調が可笑しくなり最後にはラップになっている。

2006年2月2日、TBS『うたばん』400回記念スペシャル内で米良美一がフルコーラス歌唱した。

2006年3月3日、フジテレビ『僕らの音楽2』で、槇原敬之が番組のラストナンバーとしてフルコーラス歌唱した。なお、このとき槇原・美輪明宏の対談も実現した。

2006年3月19日テレビ朝日グレートマザー物語』第222回で、米良美一が1・2番のみ歌唱した部分を放送。


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