ユーロ債
[Wikipedia|▼Menu]

ユーロ債(ユーロさい、Eurobond)とは、

狭義では、その債券の表示通貨国以外の国で起債・購買される
債券

広義では、上記に加え、発行国の通貨建だがオフショア市場で発行された債券を含めたもの

のいずれかを指す。よって、通貨としての「ユーロ建て債券」という意味では無いことに注意されたし。

ユーロ債市場は、短期資本市場としてのユーロダラー市場(1957年スタート)とまとめてユーロ市場と呼ばれる[1]

ユーロ債市場はシティ・オブ・ロンドン外債発行市場を圧迫しながら、長期資本市場としてユーロクリア創立にかけて形成された。
語の定義

元来、「ユーロ債」はその債券の表示通貨国以外の国で起債・購買される債券を指す語であったが、その後の市場の発展により、オフショア市場での発行であれば、発行国の通貨建であってもユーロ債とみなすようになった。
沿革
フリンジ・バンキング

フリンジ・バンキングとは銀行の「周辺部」(fringe)で行われる取引を指す

投資会社であったSGウォーバーグ英語: S. G. Warburg & Co.)は1963年以前からスウェーデンクローネ等の通貨で国際債を発行していた[2]

1962年からイギリスでアイスランドベルギーの外債が無記名で発行された。1963年4月に発表され8月から実施された税制改革により、無記名証券の発行が認められた。無記名証券は第二次世界大戦前にも発行されており、その際6%の税金が課されていた。無記名証券発行の税率は、イギリス居住者発行の場合3%、非居住者の場合2%へと引き下げられた。この税制改革がロンドンへユーロ市場をひきつける誘因となった。

1963年に発行されたアウトストラーダ社債がドル建てユーロ債の最初とされる(同社債1500万ドルは7月発行)[1]。アウストラーダ社債の発行幹事は、SGウォーバーグ、ドイツ銀行ブリュッセル銀行ロッテルダム銀行だった[1]

市場形成期にはユーロ債の八割程度が最終的にスイス三大銀行(スイス・ユニオン銀行クレディ・スイススイス銀行コーポレイション)が引きうけ、スイス内外の顧客へ売って消化させたといわれる。スイスに次ぐ販売先はベネルクス三国であった。最終的な買い手は、大陸ヨーロッパの富裕な個人投資家であったり、また機関投資家では、スカンジナビアやギリシャの海運会社、スカンジナビアの保険会社、イスラエルの中央銀行、ロンドンのクラウンエージェント、スイス三大銀行が運営する投資信託などである。1964年には国連の年金基金がニューヨークの信託会社のロンドン支店を受託者としてユーロ債へ投資していた。[1]

ユーロ債はセカンダリー・バンキングに使われていたのである。1968年、マニュファクチャラーズ・ハノーヴァー(英語: Manufacturers Hanover Corporation)のミノス(Minos Zombanakis)が、社長から500万ポンドをもらって、LIBORを売り込むために子会社としてのマーチャント・バンク(Manufacturers Hanover Ltd)をロンドンに設けた[3]。同年1月アメリカは直接投資規制を実施したので、米系多国籍企業は海外での資金調達を余儀なくされた[4]。1960年代後半から70年代初頭、米銀の海外支店網の整備が急速に進んでいった[5]。彼らがシティに代わってオイルショックの金融を担った。
変動利付ユーロ債

1970年代から80年代初頭にかけてはユーロ・シンジケート・ローンが隆盛した。ユーロ市場の統合がすすみ、短期資金(オイルマネーコールマネー等)が(LIBORなどによって)ロールオーバーされ、そのまま中・長期貸付に「転態」されていたのである[6]。この変動利付債(FRN)(英語版)こそが、セカンダリー・バンキングの主力商品だった。1974年、フランクリン・ナショナル(英語版))の為替差損が表面化したり、ヘルシュタット銀行(英語版))が破産したりして、コールマネーをあてにできなくなった。そこで1月から自主規制(Voluntary Foreign Credit Restraint)を撤廃していた米銀が資金を供給した[7]

FRN は、1975年BNPが6年物5000万ドルを発行したのを皮切りに、フランスの銀行やイギリスの手形交換所加盟銀行も発行するようになった。南米で債務危機がおこると、FRN保有に占める銀行の割合が八割を超えたと推計されている。1982-3年第一四半期までは、信用力の高い欧州形の銀行が固定金利債を発行してそれを変動金利支払にスワップし、反対側ではBaa格程度の米企業が変動金利債を発行してそれを固定金利支払にスワップするという簿外取引が目立って行われた。この取引は固定金利相場と変動金利市場における信用評価のばらつきを利用して、互いに調達コストを下げる手段であった。しかし銀行による発行があまりに多額にのぼったため、固定金利債の市場では銀行発行物が飽和して、信用力の低い企業の固定金利債に対するプレミアムが縮小した。スワップはALM目的で利用されるようになった。それができるようになったのは、銀行や投資銀行がマーケットメイクをするようになったからであった(シティコープだけで全スワップの1/4弱)。[8]

シンジケート・ローンの常連参加者は、ランベール銀行、バンク・プリヴェー(La Banque Privee)、ロチルド銀行(現バークレイズ)、N・M・ロスチャイルド&サンズ、ピアソン((英語版)Heldring & Pierson)の、いわゆる「五本の矢(Five Arrows Group)」であった[9]。この当時、バーナード・コーンフェルドが設立した、Investors Overseas Service(IOS)(英語版)(※ファンド・オブ・ファンズの一つ)はユーロ債の主要な購入者であった[10]

1980年代、機関投資家は一気に多様化して、豊富な裁定機会をユーロ債市場へ提供した[8]。シンジケート・ローンは証券化されるたびにバリエーションが広がった。固定債だけでも種類は多く、ストレート・ボンド、ワラント債二重通貨建債(利払通貨と元本償還通貨が異なる)、特定指数連動型(index bond)などがある。
非居住者ユーロ円債

ユーロ円債が自由化されていく発端は、1980年の(外資法廃止をともなう)改正外為法の成立である[11]。1985年9月のプラザ合意を経てから本格化していく。2年後のブラック・マンデーを契機としては、各国の対米投資とアメリカの経常収支赤字が世界信用を膨張・収縮させていることが問題となった[12]。日本から見た一連の外圧は、ドル放出と日本円取得を企図している。アメリカの立場だけを考えれば、その目的は経常収支の改善にあった。しかしユーロ市場の機関投資家は、直接または間接にユーロ円債を発行して、その調達した資金を日本株に投下したかったのである[13]。オーバーローンで系列化していた日本経済を機関化するべく[13]、政治・経済の両面から迫っていった。非居住者ユーロ円債は円建て外債と日本円を取り合う関係にあることも憂慮されて、日本の系列経済としては自由化したくなかった。しかし結果的に押し切られていった。
発行ガイドライン緩和

1984年5月の日米円・ドル委員会報告書で、以下の非居住者ユーロ円債発行ガイドライン緩和が発表された(12月実施)。

国際機関・外国政府に加え、外国の州・地方政府、政府機関、民間企業も発行できるようにする。

適債基準について、公共債はAAA格からA格以上に緩和すること。
民間債はA 格以上かつ円建外債(民間債)適債基準を満たすものが発行可能となること。

従来年間の発行件数は6-7件とされていたが、今後は発行件数および1件当たりの発行額について無制限とすること。

従来ユーロ円債の主幹事は本邦証券会社に限られていたが、これを外国業者にも開放すること。
[14]

1986年4月には民間債の適債基準を全面的に格付制度に移行し、公共債と同様にA格以上のものは無条件で発行が認められた[14]。合衆国の格付け制度は投資顧問会社が実務を掌握していた。1992年3月には世銀のグローバルボンドを還流制限の適用除外とし、内外同時募集を可能とした[14]。翌年7月には格付を取得しない場合でも発行を認めることとし、ここで非居住者ユーロ円債の適債基準は撤廃された[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef