ユーロビート
様式的起源電子音楽
Hi-NRG
ディスコ
シンセポップ
イタロハウス
文化的起源1984年 - 1985年
イギリス
西ドイツ
イタリア
日本
使用楽器ドラムマシン
キーボード
パソコン
サンプラー
シーケンサー
シンセサイザー
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ユーロビート (Eurobeat) は、主に電子楽器を使用したダンス・ミュージックの一種である。ユーロ・ディスコをルーツとし、Hi-NRG[1]と同時期の1980年代後半に流行した。現在「ユーロビート」と呼ばれているものは、1990年代後半以降に日本市場向けに特化し、独自に進化したものを指すことが多い。 ユーロビートは、シンセサイザー等の電子楽器やコンピューターの打ち込みを多用した、BPMが120以上の速いテンポのポップな楽曲である。元はヨーロッパで1970年代半ば頃より流行していた「ユーロ・ディスコ」、1980年代前半に登場した「Hi-NRG(ハイ・エナジー)」、そして同時期にイタリアで生まれた「イタロ・ディスコ」に端を発しており、1980年代後半に流行した。その特徴としては4つ打ちの譜割り、シンセベースの8分音符でのオクターヴ奏法、シンセリフの多用、使用機材(後述)などが挙げられる。 ユーロ・ビートの前史は、70年代のユーロ・ディスコの隆盛に始まる。イタリアのジョルジオ・モロダーがシンセサイザーを前面に出したサウンドメイキングを行い、アメリカ出身だが当時は西ドイツを拠点としていたドナ・サマーの楽曲がヨーロッパでヒット。西ドイツのミュンヘンで結成されたシルバー・コンベンションもヒットを出した[注 1]。やがてこれらの楽曲が、アメリカや日本など世界的に広まってゆくこととなる。この西ドイツ発のシンセ・サウンドが「ユーロ・ディスコ」と命名され、ドナ・サマーがリリースした「I FEEL LOVE」「LOVE TO LOVE YOU BABY」は、ハイ・エナジーのルーツになったとも言われるようになる[2]。この頃のユーロ・ディスコの楽曲はモーグ・モジュラーなどのアナログ・シンセサイザーで制作されていた。 1983年にヤマハが世界初のフルデジタル・シンセサイザーとなるDX7を発売する。同機は24万8千円という、当時としては異例の低価格で発売され、シーケンサーのQXシリーズやドラムマシンのRXシリーズなどと併せて打ち込みの作曲に革命的な変化をもたらすと共に、デジタル・シンセサイザーの普及に多大な貢献をすることとなった。また同年にMIDI規格が制定されるなど、これらの出来事はユーロビートにおける煌びやかなサウンド・メイキングの普及を決定付けることとなる。こうした事情を踏まえ、ユーロ・ディスコに代わって「ハイ・エナジー」と呼ばれる、BPM110以上のやや速めのディスコミュージックが流行するようになると、英国の音楽雑誌「レコード・ミラー」は「Hi-NRG」チャートを創設した。 イギリスのプロデューサーチームであるストック・エイトキン・ウォーターマンによるプロデュースの下で活動したデッド・オア・アライヴが1984年11月5日に『You Spin Me Round (Like a Record) 』をリリースすると、同曲はイギリスだけでなく、アメリカでも大ヒットする。この楽曲は、後のユーロビートに見られる、高速なBPMとオクターヴ奏法を多用したFM音源のシンセベースによるベースラインという2つの特徴、を明確に打ち出した。ストック・エイトキン・ウォーターマンはその後も1980年代を通じてバナナラマ、ジェイソン・ドノヴァン、そしてカイリー・ミノーグ、リック・アストリー、メル&キムらの曲を制作し、自らのレーベル「PWLレコード」を世界的に流通させることとなる。 イギリスで「ユーロビート」と名付けられた理由の一つに、1985年12月、英国の音楽雑誌「レコード・ミラー」が「Hi-NRG Chart」の名称を「ユーロビート・チャート」に改名したことを挙げることができよう。この改名は、BPMが120を超えるような速いテンポでかつポップな作品が増加したため[3]であると言われている。 ユーロビートは前述のストック・エイトキン・ウォーターマンを筆頭に、有名プロデューサーによって大量生産されていた。また、ドイツやイタリアを中心とするヨーロッパ大陸で人気を博していたイタロ・ディスコの流れもあり、イタリアでSAIFAMレーベルを主宰するマウロ・ファリーナやジュリアーノ・クリヴェレンテのプロデュースによってMax-Him(ドイツ出身のグループで、フロリアン・ファディンジェールが在籍)、Aleph(デイブ・ロジャースが在籍)、Radiorama(マウロ・ファリーナ自身がボーカルを務める)などの多数のアーティスト、ヒット曲を輩出している。
歴史
世界のユーロビート