ユーレカスプリングス_(アーカンソー州)
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ユーレカスプリングス
Eureka Springs, Arkansas

(上から時計回りに)ユーレカスプリングスの遠景、公共図書館、キャロル郡庁舎、夜の歴史的商業地区、ソーンクラウン礼拝堂
愛称: "ユーレカ"、"アメリカの小スイス"、"階段の町"
アーカンソー州におけるキャロル郡(右図)と同郡におけるユーレカスプリングス市の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度24分11秒 西経93度44分18秒 / 北緯36.40306度 西経93.73833度 / 36.40306; -93.73833座標: 北緯36度24分11秒 西経93度44分18秒 / 北緯36.40306度 西経93.73833度 / 36.40306; -93.73833
アメリカ合衆国
アーカンソー州
キャロル郡
政府
 ? 種別市政委員会・マネジャー方式
 ? 市長モリス・R・ペイト
面積
 ? 合計6.9 mi2 (18 km2)
 ? 陸地6.8 mi2 (17.6 km2)
 ? 水域0.1 mi2 (0.4 km2)
標高1,260 ft (384 m)
人口(2010年)[1]
 ? 合計2,073人
 ? 密度300人/mi2 (120人/km2)
等時帯UTC-6 (中部標準時)
 ? 夏時間UTC-5 (CDT)
郵便番号72631-72632
市外局番479
FIPS code05-22240
GNIS feature ID0048926
ウェブサイト ⇒City Website


ユーレカスプリングス歴史地区
アメリカ合衆国国家歴史登録財
アメリカ合衆国国定歴史地区

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所在地メインストリート南
座標北緯36度24分11秒 西経93度44分18秒 / 北緯36.4031度 西経93.7383度 / 36.4031; -93.7383
面積5エーカー (2.0 ha)
建設1913年
NRHP登録番号79003730[2]
NRHP指定日1979年1月29日

ユーレカスプリングス(: Eureka Springs)は、アメリカ合衆国アーカンソー州の北西部、オザーク高原に位置するキャロル郡の都市である。キャロル郡には郡庁所在地が2つあり、ベリービルとともにユーレカスプリングスが郡庁所在地に指定されている。2010年国勢調査による人口は2,073人だった[1]。市全体がユーレカスプリングス歴史地区としてアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されており、人気のある観光地になっている。

ユーレカスプリングスは特徴あるビクトリア調のリゾート村である。市内の曲がりくねった坂道の間にビクトリア調のコテージや邸宅が配されている。古い商業地区は高山の性格があり、保存状態の良いビクトリア調建築物が並ぶ景観がある。建物は主に地元産の石材で造られ通り沿いに並ぶ。通りは丘の周りに沿って曲がり、地形に合わせて上り下りし、全長5マイル (8 km) の環状になっている。建物によっては通りに面した入口が複数の階にあるものもある。全米歴史保存信託から「アメリカの特徴ある目的地」の1つに選定されている。昔から「アメリカの小スイス」や「階段の町」と呼ばれてきており、山がちな地形と、通りが曲がりくねり上下していることから言われてきた。通りが曲がっているので、どの通りも直角に交わることが無く、また信号機もない。
歴史展望塔の上から見たユーレカスプリングス、クレセント・ホテルが地平線上に見える、2008年撮影ハーディング泉、2008年撮影ソーンクラウン礼拝堂、2006年撮影

インディアンの伝承ではユーレカスプリングス地域にある偉大な癒しの泉について触れており、様々な文明人が神聖な目的のために泉を訪れていた。

ヨーロッパ系アメリカ人がこの泉に癒し効果があると見なした次の文明人だった。ヨーロッパ人がこの地域に到着した後、泉の水に魔法の力があると言っていた。19世紀後半の短い期間に、ユーレカスプリングスは繁栄する都市、温泉、観光地に変身した。アルバー・ジャクソン博士がアメリカ史の中でこの泉の存在を認めた人とされており、1856年にベイスンスプリングの水が、彼の目の慢性病を癒したと言っていた。ジャクソンは南北戦争の間に地元洞穴内に病院を設立し、ベイスンスプリングの水を患者の治療に用いた。戦後、ジャクソンは「ジャクソン博士の目の水」として鉱泉水を売り出した。1905年にはユーレカスプリングスにオザーク水会社が結成された。

1879年、ジャクソンの友人であるJ・B・サンダーズ判事が、その足の病気が鉱泉水で治ったと主張した。サンダーズは州内の友人や一族にユーレカスプリングスの宣伝を始め、ブームタウンを作った。1年かそこらの間に町は田舎の温泉村から主要都市に成長した。

1880年2月14日、ユーレカスプリングスは市として法人化された。サンダーズの宣伝に基づいて数多い訪問者が泉を訪れ、地域にはテントや掘っ立て小屋が溢れた。1881年、ユーレカスプリングスはアーカンソー州で4番目に大きな市となり、1889年にはリトルロックに次いで第2位となった。

レコンストラクション時代の州知事パウェル・クレイトンが、任期の明けた後に連邦主義者の多いユーレカスプリングスに移転し、市とその商業的価値を宣伝し始めた。クレイトンは裕福な引退者の町として市を宣伝した。間もなく優美な生活と裕福な生活様式で知られるようになった。

禁酒運動の強硬な推進者キャリー・ネイションがその晩年にこの地に移動してきて、スティール通りにハチェットホールを設立しており(ハチェットはネイションのトレードマークの手斧)、後には博物館として運営されたが、現在は閉館になった。

ユーレカスプリングスで唯一の銀行強盗は1922年9月27日に起きた。オクラホマ州から来た5人の無法者が第一国定銀行を襲おうとした。無法者の3人が殺され、他の2人も負傷した。

1967年、有名な7階建てのオザークのキリスト像が建設され、1年後にグレート・パッション・プレイが始まった。これはアメリカでも観衆の多い屋外劇となり、その開始以来少なくとも760万人が訪れている。

1980年、建築家E・フェイ・ジョーンズがソーンクラウン礼拝堂を設計した。当時設計に関する賞を受賞し、2006年にはアメリカ建築家協会から「25年間賞」に選ばれた。これはその分野で重要な影響を与えた建築物を認定するものである。その質の高い特殊な性格故に、礼拝堂は2000年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された。
ビクトリア期建築

1882年、ユーレカ・インプルーブメント・カンパニーが市内に鉄道を誘致するために結成された。鉄道の開通によって、ユーレカスプリングスは休暇用リゾート地として確立された。それから2年足らずの間に、数多い家屋と商業施設が建設された。1886年にはクレセント・ホテルが、1905年にはベイスン・パークホテルが建設された。これら多くのビクトリア期建築はうまく保存され、その質を評価される整然とした景観を作りだしている。

1891年、南北戦争の北軍退役兵カーティス・ライトがミズーリ州カーシージにアン女王様式の邸宅を建設した[3][4]。ライトは1888年にこの地域に移転してきて、鉛と亜鉛の採掘を行った[5]。その後カーシージ石材会社を始め[6]、土地の石切場から石灰岩を集めた[4]。ライトはインディアナ州に大型の家具工場を持っており、家族ごと移転する場所を探すために中西部に6か月の旅行を行い、その一部としてカーシージに来ていた[7]。ライトはこの地域で富の可能性があることを見て取ると、妻に宛てて妻が移転に同意してくれるならば「カーシージ最大の家」を建設すると約束した[5]。この29室の邸宅はアン女王様式の建築の1例だった。


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