ユーリー・クノロゾフ
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ユーリー・ヴァレンティノヴィチ・クノロゾフメキシコユカタン州メリダに建てられたクノロゾフの銅像[1]
人物情報
生誕 (1922-11-19) 1922年11月19日
ソビエト連邦 ハルキウ
死没1999年3月31日(1999-03-31)(76歳)
ロシア サンクトペテルブルク
出身校モスクワ大学
学問
研究分野言語学
研究機関クンストカメラ
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ユーリー・ヴァレンティノヴィチ・クノロゾフ(ロシア語: Ю?рий Валенти?нович Кноро?зов、1922年11月19日[2] - 1999年3月31日)は、ソビエト連邦言語学者民族誌研究者。マヤ文字表音文字としての解読方法を確立した人物として知られる。
経歴

クノロゾフは、ウクライナハルキウ(当時は成立したばかりのウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都)で、ロシア人知識人の家庭に生まれた[3]。祖母はアルメニア人だった[3]。1940年にモスクワ大学に入学し、民族誌学を専攻した[4]

健康の問題があったため、第二次世界大戦の前線に従軍することはなく、戦時中はウクライナに戻った[3]。クノロゾフに関する有名な逸話に、燃えるベルリン図書館から偶然マヤ絵文書の複製を持ち帰ったという話があり、マイケル・D・コウの『マヤ文字解読』にも引かれているが[5]、実際には持ち帰ったのはソ連軍の将校であってクノロゾフ本人ではなかったという[3]

戦後復学してエジプト学中国学を学び、日本語アラビア語にも手を出した[3]。セルゲイ・トカレフ(ロシア語版)の勧めでマヤ文字の解読をはじめた[5]。また、セルゲイ・トルストフ(ロシア語版)のウズベキスタン探検(1945-1948)に参加した[6]

1949年に大学を卒業した後、レニングラート人類学・民族学博物館で研究を続け[6]、1952年、マヤ文字の解読に関する最初の論文が公刊された。1956年にコペンハーゲンで開かれた国際会議に出席した。その後は1990年まで国外に出ることはなかった。1963年と1975年にマヤ文字に関する著書を出版。なお、クノロゾフの方法をもとにして、コンピューターでマヤ文字を自動解読しようという試みが行われたが、失敗に終わっている[7]

1990年にグアテマラ政府から招待され、このとき初めて実際のマヤの遺跡を訪れた[8]。1994年にはメキシコでアステカ鷲勲章(英語版)を授与された[6]。1999年にサンクトペテルブルクで没した。
受賞・栄典

1977年:
ソビエト連邦国家賞を受賞[3]

研究内容・業績

マヤ文字のほかに、
ロンゴロンゴ文字インダス文字の解読も試みた[6]。また、千島列島を探検し、アイヌに関する論文も書いている[6]

マヤ文字の解読


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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