ユースフ2世
Yusuf II
ナスル朝スルターン
在位期間
1391年1月15日 ? 1392年10月5日
先代ムハンマド5世
ユースフ2世、本名アブ・アル=ハジ・ユースフ・イブン・ムハンマド(アラビア語: ??? ?????? ???? ?? ????、1356年 – 1392年10月5日)は、1391年1月からその死まで、イベリア半島のナスル朝グラナダ王国のスルタンであった人物。彼は同王朝における11代目のスルタンであり、その前任者であるムハンマド5世(英語版)(在位: 1354年 - 1359年、1362年 ? 1391年)の長男であった。周辺のキリスト教国との平和路線を継承したが、王位についていたのは2年にも満たず、マリーン朝によって毒殺されたともいわれている。 3歳ごろのとき、父王が退位し(1359年)、家族はモロッコのマリーン朝の首都であるフェズに亡命した。ムハンマドが1362年に王位を取り戻すと、若かりしユースフは王国のために戦う北アフリカ兵軍団の指揮権を与えられた。ムハンマドが1391年に亡くなると、王位を継承しスルタンになった。政権は当初、大臣のハーリド(Khalid)によって支配されていたが、ハーリドはスルタンに謀反を起こしたと疑われ、処刑されることになった。その後、ユスフが政権を掌握し、1392年7月に父の宰相(ハーリドが幽閉していた)である詩人イブン・ザムラク
概要
ユースフは、ナスル朝の隣国であるカスティーリャ王国との父王が結んだ平和条約を継続し、もう一つのキリスト教隣国であるアラゴン王国のフアン1世(在位: 1387年 - 1396年)とも1392年8月に条約に署名した。
しかし王位に就いて2年も経たない1392年10月5日に亡くなった。中世のキリスト教の作家は、マリーン朝のスルタン、アブ・アル・アッバース・アフマド(Abu al-Abbas Ahmad)から贈られた毒入りチュニック(上衣の一種)によって殺された、と述べている。現代史家もユースフの毒殺をもっともらしいと考えているが、この信憑性には疑問があるのみならず、誇張されている可能性もあり、他の資料では裏付けがない。その後、息子のムハンマド7世(在位: 1392年 - 1408年)、続けてさらに息子のユースフ3世(英語版)(在位: 1408年 - 1417年)が後継者となった。 1356年、ムハンマド5世
出生・家族との亡命
ムハンマド5世は、1361年8月にアルアンダルスに戻り、前哨地のロンダのマリーン朝の対抗法廷を創設し、この前年にイスマーイール2世を退位させたムハンマド6世との内戦を開始した。時のカスティリャ王ペドロ1世に支持されたムハンマド5世が優勢になり、ムハンマド6世はアルハンブラ宮殿から逃亡し、1362年3月13日にペドロに亡命を求めた。ムハンマド5世は廃墟となった王宮に入り、王位を取り戻した。ムハンマド6世は、4月25日にペドロによって殺害され、その頭がムハンマド5世に送られた[2]。
アルアンダルスに戻りユースフの父であり、グラナダ王として最も長く君臨しているナスル朝の支配者の1人であったムハンマド5世のコイン
父王の復位の際、ユースフはまだフェズにいた。同じころマリーン朝のスルタンとなったアブ・ザイヤン・ムハンマドは、彼を交渉材料に使って、ムハンマド5世にロンダを返還させようと試みた。マリーン朝は降伏し、ユスフは父の宰相イブン・アル・カティーブ(彼もモロッコに亡命していた)を連れてグラナダに戻ることを許されたが、ロンダはナスル朝の支配下に置かれたままであった。ユースフの一行は1362年6月14日に首都グラナダに到着した。兄弟であるアブ・ナスル・サド、ナスル(どちらもおそらく1362年から1369年の間に生まれた)とアブ・アブドゥラ・ムハンマドが生まれたのはその後のことである[1]。
ユースフはヒジュラ暦764年(およそ1362年10月から1363年10月)に割礼を受けた。男の子は通常7歳で割礼を受けていたことから先述の生年の特定に繋がった[1]。ムハンマドは、1363年6月26日ムハンマド5世は義勇軍(????? ??????、当時ナスル朝にあった軍事組織のこと)のシェイク・アルグザット(shaykh al-ghuzat、長官)であったヤヒヤ・イブン・ウマル(Yahya ibn Umar)を解任した。義勇軍はナスル朝のために戦う北アフリカの兵士で、その長はベルベル人のマリーン朝に関わる反体制派の王子だったが、スルターンは若いユースフを長に、サード(Sa'd)を司令官に任命したのである[1][3]。ユースフはまた、ムハンマドから無税の不動産を受け取った[1]。
ムハンマド5世はナスル朝のスルターンの中で最も長い間その統治権を握った。ユースフが成人期に達した頃、父に反抗した疑いで拘留され、法廷に召喚されたが、調査の結果無罪となった[1]。1390年、ムハンマドとカスティーリャ王フアン1世が両王国間の平和を拡大する条約に署名した際には、ユースフとフアンの息子エンリケ3世も署名を行った[4]。ユースフは、1391年1月に父親が亡くなったとき約35歳であった[1]。
スルターン即位後1360年のナスル朝グラナダ王国とその周辺の王国、当時はカスティーリャ以外にもアラゴン王国、ポルトガル王国、ナバラ王国が存在した
ユースフ2世は、父親の死の日である1391年1月15日(AH[注釈 2]793年サファル[注釈 3]10日)に王位に就き、アル・ムスタグニ・ビ・ラー(al-Mustaghni bi-llah、「神に満足する者」)というラカーブ(laqab、王位の敬称)を採用した。