ユースフ1世_(ナスル朝)
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ユースフ1世
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グラナダのスルターン
ユースフ1世の名が刻まれたディナール金貨
在位1333年8月26日 - 1354年10月19日

全名アブル=ハッジャージュ・ユースフ・ブン・イスマーイール
出生1318年6月29日ヒジュラ暦718年ラビー・アッ=サーニー月28日)
アルハンブラ宮殿グラナダ
死去1354年10月19日(ヒジュラ暦755年シャウワール月1日)
アルハンブラ宮殿
埋葬アルハンブラ宮殿
配偶者ブサイナ
 マルヤムまたはビ=リム
子女息子
ムハンマド5世(英語版)
イスマーイール2世
カイス
アフマド

アーイシャ
ファーティマ
ムウミナ
ハディージャ
シャムス
ザイナブ
王朝ナスル朝
父親イスマーイール1世
母親バハール
宗教イスラーム教
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ユースフ1世(アブル=ハッジャージュ・ユースフ・ブン・イスマーイール, アラビア語: ??? ?????? ???? ?? ???????‎, ラテン文字転写: Abu?l-?ajj?j Y?suf b. Ism???l, 1318年6月29日 - 1354年10月19日)、またはラカブでアル=ムアイヤド・ビッ=ラーフ(アラビア語: ?????? ?????‎, ラテン文字転写: al-Mu?ayyad bi-ll?h,「神の救済を得る者」の意)[1]は、第7代のナスル朝グラナダ王国の君主である(在位:1333年8月26日 - 1354年10月19日)。

兄のムハンマド4世の暗殺後に15歳でスルターンに即位したユースフ1世は、当初は年少者として扱われ、大臣たちと祖母のファーティマ(英語版)から限られた権限しか与えられなかった。ナスル朝は1334年2月に隣国であるカスティーリャ王国マリーン朝との間で4年間の平和条約を締結し、5月にはアラゴン王国とも条約を締結した。その後、より強い権力を得ると1338年か1340年に兄のムハンマド4世殺害の黒幕であったアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン(ナスル朝のために戦う北アフリカ出身者から構成された軍事組織)の指導者の一族であるアビー・アル=ウラー家を追放した。

平和条約の期限が切れた後、ユースフ1世はカスティーリャ王アルフォンソ11世に対抗するためにマリーン朝のスルターンのアブル=ハサン・アリーと同盟を結んだ。1340年4月にはアルヘシラス沖でナスル朝とマリーン朝の艦隊がカスティーリャ艦隊に圧倒的な勝利を収めたものの、最終的にナスル朝とマリーン朝の連合軍は同年10月30日にサラード川の戦い(英語版)で決定的な敗北を喫した。ナスル朝はこの戦いの余波でアルカラ・デ・ベンサイデを含むいくつかの城塞や都市をカスティーリャに奪われた。1342年にはアルフォンソ11世が戦略的に重要な港湾都市であるアルヘシラスを包囲(英語版)した。ユースフ1世はカスティーリャ領内に陽動攻撃を加えながら部隊をアルヘシラスへ向かわせ、包囲軍と交戦したものの、アルヘシラスは1344年3月に10年間の和平と引き換えに降伏を余儀なくされた。

1349年にアルフォンソ11世は条約を破って再び侵攻し、マリーン朝が統治していたジブラルタル包囲した。ユースフ1世は援軍を送れなかったマリーン朝に代わりカスティーリャへの反撃を指揮したが、1350年3月にアルフォンソ11世が黒死病で死去したことで包囲は解除された。ユースフ1世はアルフォンソ11世に敬意を表し、王の遺体とともにナスル朝の領内から退却するカスティーリャ軍に攻撃を加えないように命じた。包囲戦後にはアルフォンソ11世の息子で後継者のペドロ1世と条約を結び、条約に従ってカスティーリャ王に対する国内の反乱の鎮圧のために軍隊を派遣した。その後、マリーン朝のスルターンのアブー・イナーン・ファーリスと対立したスルターンの兄弟を受け入れたことでマリーン朝との関係が悪化した。そしてイード・アル=フィトルにあたる1354年10月19日にグラナダの大モスクで祈りを捧げている中、一人の狂人の手によって暗殺された。

ユースフ1世の治世中に被った領土の喪失とは対照的に、ナスル朝は建築や文化面において繁栄期を迎えた。グラナダの市内には高等教育機関であるマドラサ・ユースフィーヤが設立され、アルハンブラ宮殿ではコマレス宮の増築を含む多くの建造物が建てられた。また、ハージブ(侍従)のアブー・ヌアイム・リドワーンをはじめ、ワズィール(宰相)を務めたイブン・アル=ジャイヤーブ(英語版)やイブン・アル=ハティーブなどの著名な文化人が政権を支えた。現代の多くの歴史家は、ユースフ1世とその息子で後継者のムハンマド5世(英語版)の治世をナスル朝の全盛期であったとみなしている。
出自と初期の経歴ユースフ1世は1318年に写真のアルハンブラ宮殿で生まれた。

ユースフ1世として知られるアブル=ハッジャージュ・ユースフ・ブン・イスマーイールは、1318年6月29日(ヒジュラ暦718年ラビー・アッ=サーニー月28日)にナスル朝グラナダに築いた要塞と王宮の複合施設であるアルハンブラ宮殿で生まれた。スルターンイスマーイール1世(在位:1314年 - 1325年)の三男であり、イスマーイール1世の死後に後継者となったムハンマド4世(在位:1325年 - 1333年)の弟にあたる[2]。イスマーイール1世には4人の息子と2人の娘がいたが、ユースフは母親のバハールが生んだ唯一の子供であった。バハールはキリスト教国出身のウンム・ワラド(英語版)(女奴隷の内妻)であり、後にユースフ1世の下でワズィール(宰相)を務めた歴史家のイブン・アル=ハティーブは、「善行を積み、貞潔で平静を保つ高潔な性格の人物」と評している[2][3]。1325年にイスマーイール1世が暗殺されると10歳の息子のムハンマド4世が後継者となり、1333年8月25日に暗殺されるまでナスル朝を統治した。ムハンマド4世の暗殺はジブラルタルを包囲(英語版)したカスティーリャ軍をモロッコマリーン朝と協力して退け、グラナダへ戻る途中で起こった[4]。イブン・アル=ハティーブは、若き日のユースフを「肌が白く、生まれながらの才能があり、性格も優れていた」と記し、黒い瞳と真っすぐな黒い髪を持ち、濃いあご髭を蓄えていたと説明している。さらに、ユースフは「優雅な衣装」を好み、芸術や建築に関心を抱き、「武器の収集家」であり、「多くの機械や道具を扱う能力があった」と述べている[5]。また、即位する以前は母親の家で暮らしていた[6]
背景1360年時点のイベリア半島の勢力図。南部の茶色の部分がナスル朝。

1230年代にムハンマド1世によって建国されたナスル朝はイベリア半島における最後のイスラーム国家であった[7]。外交と軍事的な戦略を組み合わせることによって、王朝は北方のキリスト教国であるカスティーリャ王国と海を隔てたモロッコのイスラーム王朝であるマリーン朝という二つの大きな隣国に挟まれていたにもかかわらず、独立を維持し続けることに成功した。ナスル朝はいずれかの勢力に支配されることを避けるために、両者と断続的に同盟関係を結ぶか、時には武力に訴え、さもなければ両者が互いに戦うように仕向けていた[8]。ナスル朝のスルターンはしばしばカスティーリャ王に忠誠を誓い、カスティーリャとって重要な収入源となっていた貢納金を支払った[9]。カスティーリャの視点ではナスル朝の君主は国王の臣下であったが、その一方でイスラーム教徒は史料の中で決してそのような関係にあるとは説明しなかった。


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