ユースタス・テニソン=ダインコート
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サー・ユースタス・
テニソン=ダインコート
Sir Eustace Tennyson d'Eyncourt

生誕 (1868-04-01) 1868年4月1日
イギリスハートフォードシャー、バーネット(英語版)
死没1951年2月1日(1951-02-01)(82歳)
イギリスロンドンウェストミンスター
出身校チャーターハウス校
主な業績海軍造船局長(英語版)
主な受賞歴王立協会フェロー
配偶者ジャネット・フィンレイ
プロジェクト:人物伝
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初代準男爵サー・ユースタス・ヘンリー・ウィリアム・テニソン=ダインコート(: Sir Eustace Henry William Tennyson d'Eyncourt, 1st Baronet,KCB FRS1868年4月1日 ? 1951年2月1日[1])は、イギリスの海軍技官、艦艇設計技師。戦艦ネルソンや巡洋戦艦フッドの設計を行ったほか、黎明期の戦車の開発・設計にも携わった。その手腕から「イギリス造船界の至宝」と評された[2]
生涯

治安判事ルイス・テニソン=ダインコートの息子として生まれた[3]。詩人アルフレッド・テニソンは父ルイスの従兄弟にあたり、祖父に庶民院議員チャールズ・テニソン=ダインコート(英語版)、叔父にエドウィン・テニソン=ダインコート(英語版)海軍大将がいる[4]。長じてイートン校を志望するもスカラーシップ入試に落第したため、チャーターハウス校に進んだ[4]先輩造船官フィリップ・ワッツ

卒業後、叔父エドウィンから勧められたこともあり、造船を行うアームストロング・ホイットワース社に入社した[4]。以降は、私費でグリニッジ王立海軍大学(英語版)に入学・受講したのち、一時フェアフィールド造船(英語版)に勤務した時期もあったが、その後再度アームストロングに入社して艦艇設計技師の経験を積んだ[4]。なお、同社の先輩にはフィリップ・ワッツ造船官がいた[5]。ワッツは海軍造船局長(英語版)として戦艦ドレッドノートクイーン・エリザベス級戦艦などの設計を行った人物である[6]。ダインコートにグリニッジ王立海軍大学への進学を勧めたのもワッツその人であった[3]

1904年、竣工した防護巡洋艦ハミディエの引き渡しのため、オスマン帝国を訪れた。来訪時にオスマン帝国政府からトルコ海軍艦艇の現況を取りまとめるよう依頼を受け、報告を行った功績からメディジエ勲章(英語版、トルコ語版)を授与された[7]

1912年、ダインコートはワッツの後を継いで、イギリス海軍の軍艦設計を取り仕切る海軍造船局長(英語版)に昇進した[7][4]。直後、ダインコートは造船官として初めて戦艦の設計に携わることとなり、リヴェンジ級戦艦の主設計を行った[2]。この際に用兵側から三連装砲塔を採用して主砲を計10門とするよう要請されたが、ダインコートはこれを退けて手堅く前級(Q.E.級戦艦)と同様の連装砲塔4基計8門とした。この決断には、リヴェンジ級戦艦が「Q.E.級戦艦の廉価版」というコンセプトがあったたためとされる[2]
第一次世界大戦中の活躍

1914年に第一次世界大戦が勃発した。ダインコートは戦時中に巡洋戦艦の設計も行うこととなった。巡洋戦艦は元第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャー提督の発案による艦種で、「戦艦の火力はそのままに軽装甲により速力性能を高める」というコンセプトの艦船であった。1914年には、その速力優先主義者のフィッシャー提督が第一海軍卿に復帰して巡洋戦艦の追加建造を要求してきたため[8]、ダインコートは立て続けにカレイジャス級巡洋戦艦(英語版)、レナウン級巡洋戦艦の主設計を行った[9][10]巡洋戦艦フッド。その優美かつ力強い姿から英国民に『Mighty Hood』と親しまれた[11]

翌年に入るとダインコートは海軍省から新型戦艦の設計を命じられたため、これに取り組んでいた。しかし1916年2月、グランド・フリート司令長官のジョン・ジェリコー海軍大将がダインコートを訪れ、「ドイツ海軍では、15インチ(38.1cm)砲を備えたマッケンゼン級巡洋戦艦が建造中の情報があり脅威である[注釈 1]」としてより強大な巡洋戦艦の設計を急遽求めてきた[11]。そこでダインコートが設計主務者としてデザインしたのが15インチ砲を主砲に持つ巡洋戦艦フッドである[4][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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