ユージン・メイヤー
[Wikipedia|▼Menu]

ユージン・メイヤー
Eugene Meyer


初代 世界銀行グループ総裁
任期
1946年6月18日 ? 1946年12月4日
前任者(新設)
後任者ジョン・J・マクロイ
第5代 連邦準備制度理事会議長(英語版)
任期
1930年9月16日 ? 1933年5月10日
大統領ハーバート・フーヴァー
フランクリン・ルーズベルト
前任者ロイ・ヤング(英語版)
後任者ユージン・ブラック(英語版)
連邦準備制度理事会(英語版)理事
任期
1930年9月16日 ? 1933年5月10日
大統領ハーバート・フーヴァー
フランクリン・ルーズベルト
前任者エドムンド・プラット(英語版)
後任者ユージン・ブラック(英語版)

個人情報
生誕Eugene Isaac Meyer
(1875-10-31) 1875年10月31日
アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
死没1959年7月17日(1959-07-17)(83歳)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州マウント・キスコ(英語版)[1]
政党共和党
配偶者アグネス・アーンスト (m. 1910)
子供5人(キャサリンフローレンスほか)
教育カリフォルニア大学バークレー校
イェール大学 (BA)

ユージン・アイザック・メイヤー(Eugene Isaac Meyer、1875年10月31日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国の金融業者、新聞発行者である。1933年に『ワシントン・ポスト』紙を買収してその発行人となり、それ以降2000年まで同紙はメイヤーの子孫が保有・発行した。1930年から1933年まで連邦準備制度理事会議長(英語版)を務め、世界銀行グループの初代総裁も務めた。
若年期と初期のキャリア

メイヤーはカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、サンフランシスコで育った。メイヤーは、ラビや市民団体のリーダーの血を引いている[2]。マーク・ユージン・メイヤー(英語版)とジョセフ・ニューマーク(英語版)の娘ハリエットの間に生まれた8人の子供のうちの1人である。カリフォルニア大学バークレー校に入学するが1年で退学し、後にイェール大学に入学して1895年に学士号を取得した。

大学卒業後、父が経営に参加しているラザード・フレール社に入社したが、入社4年目の1901年に退職し独立した。メイヤーは投資家・投機家として成功し、ニューヨーク証券取引所に席を持っていた。1915年、40歳のときには4000万ドルの資産を持っていた。

1920年、メイヤーはゼネラル・ケミカル社のウィリアム・H・ニコルズ(英語版)とパートナーを組んだ。メイヤーとニコルズは、5つの小さな化学会社を統合してアライド・ケミカル・アンド・ダイ社(Allied Chemical & Dye Corporation)を設立した。この会社はアライドケミカル社、アライド社を経てアライドシグナル社となり、1998年にハネウェルと合併してその特殊材料部門となった。ハネウェルのニュージャージー州モリスタウンの本社には、両氏の名前を冠した建物がある。
連邦準備制度理事会議長

第一次世界大戦中、ウッドロー・ウィルソン大統領に請われて年俸1ドルで戦争金融公社(英語版)の総裁となり、終戦後も長くその職を務めた[3]。1927年、カルビン・クーリッジ大統領により連邦農業融資委員会(英語版)委員長に任命された。

1930年、ハーバート・フーヴァー大統領により、連邦準備制度理事会(FRB)議長(英語版)に任命された。1932年、再建金融公社(英語版)の総裁を半年間務めた。この公社は、フーヴァー大統領が企業に融資して支援するために設立したものだったが、うまく行っていなかった。フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任すると、メイヤーは1933年5月10日にFRBの役職を辞任した[4]

メイヤーは、1930年代初頭の世界恐慌に対しFRB議長として金融刺激策を打たなかったことで、銀行危機が手に負えないものになり、経済崩壊が深まったとして批判されている。メイヤーは、J・P・モルガンアンドリュー・メロンオグデン・ミルズとともに「ヨハネの黙示録の四騎士」になぞらえられた[5]。最近では、ノーベル賞受賞者のミルトン・フリードマンとその同僚の経済学者アンナ・シュワーツ(英語版)が著書『米国金融史(英語版)』の中で、FRBは世界恐慌の影響を緩和することができたはずだが、金融システムの管理や信用不安の改善という役割を果たすことができなかったと論じている[6]
『ワシントン・ポスト』の買収

1929年、メイヤーは『ワシントン・ポスト』の買収を500万ドルで提案したが、断られた[7][8]

1933年6月、メイヤーは、公売処分に出されていた『ワシントン・ポスト』を発行するワシントン・ポスト・カンパニー(以下「ポスト社」)の株式を82万5千ドルで購入した。ポスト社は、オーナーのエドワード・ビール・マクレーン(英語版)の浪費癖のため、世界恐慌のときに破産していた。メイヤーは、その3週間前にFRB議長を辞任したばかりで、出版業の経営の経験はなかった。それにもかかわらず、「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストをはじめとする他の入札者よりもはるかに高い200万ドルもの金額を、ポスト社の落札のために用意していたのである[9][8]。メイヤーは匿名で入札に参加し、入札会場には顔を出さなかった[10]。メイヤーの娘のキャサリンでさえポスト社の落札者の名前を知らず、何週間も憶測が飛び交った後[11]、6月13日にようやく全米の新聞でその名前が明らかにされた[12][13]

メイヤーは報道機関に対する声明の中で、ポスト社の改善を誓い、独立して運営することを主張した。また、「いかなる個人・団体・組織の影響も受けずに」、自分自身の力でポスト社を買収したとも述べた[14]。この発言は、共和党員として有名なメイヤーがポスト社を手に入れたのは、『ワシントン・ポスト』に共和党の意見を代弁させるためだという噂を否定するためだった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef