ユージン・メイヤー
Eugene Meyer
初代 世界銀行グループ総裁
任期
1946年6月18日 ? 1946年12月4日
前任者(新設)
後任者ジョン・J・マクロイ
第5代 連邦準備制度理事会議長(英語版
ユージン・アイザック・メイヤー(Eugene Isaac Meyer、1875年10月31日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国の金融業者、新聞発行者である。1933年に『ワシントン・ポスト』紙を買収してその発行人となり、それ以降2000年まで同紙はメイヤーの子孫が保有・発行した。1930年から1933年まで連邦準備制度理事会議長(英語版)を務め、世界銀行グループの初代総裁も務めた。 メイヤーはカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、サンフランシスコで育った。メイヤーは、ラビや市民団体のリーダーの血を引いている[2]。マーク・ユージン・メイヤー
若年期と初期のキャリア
大学卒業後、父が経営に参加しているラザード・フレール社に入社したが、入社4年目の1901年に退職し独立した。メイヤーは投資家・投機家として成功し、ニューヨーク証券取引所に席を持っていた。1915年、40歳のときには4000万ドルの資産を持っていた。
1920年、メイヤーはゼネラル・ケミカル社のウィリアム・H・ニコルズ(英語版)とパートナーを組んだ。メイヤーとニコルズは、5つの小さな化学会社を統合してアライド・ケミカル・アンド・ダイ社(Allied Chemical & Dye Corporation)を設立した。この会社はアライドケミカル社、アライド社を経てアライドシグナル社となり、1998年にハネウェルと合併してその特殊材料部門となった。ハネウェルのニュージャージー州モリスタウンの本社には、両氏の名前を冠した建物がある。 第一次世界大戦中、ウッドロー・ウィルソン大統領に請われて年俸1ドルで戦争金融公社
連邦準備制度理事会議長
1930年、ハーバート・フーヴァー大統領により、連邦準備制度理事会(FRB)議長(英語版)に任命された。1932年、再建金融公社(英語版)の総裁を半年間務めた。この公社は、フーヴァー大統領が企業に融資して支援するために設立したものだったが、うまく行っていなかった。フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任すると、メイヤーは1933年5月10日にFRBの役職を辞任した[4]。
メイヤーは、1930年代初頭の世界恐慌に対しFRB議長として金融刺激策を打たなかったことで、銀行危機が手に負えないものになり、経済崩壊が深まったとして批判されている。メイヤーは、J・P・モルガン、アンドリュー・メロン、オグデン・ミルズとともに「ヨハネの黙示録の四騎士」になぞらえられた[5]。最近では、ノーベル賞受賞者のミルトン・フリードマンとその同僚の経済学者アンナ・シュワーツ(英語版)が著書『米国金融史(英語版)』の中で、FRBは世界恐慌の影響を緩和することができたはずだが、金融システムの管理や信用不安の改善という役割を果たすことができなかったと論じている[6]。 1929年、メイヤーは『ワシントン・ポスト』の買収を500万ドルで提案したが、断られた[7][8]。 1933年6月、メイヤーは、公売処分に出されていた『ワシントン・ポスト』を発行するワシントン・ポスト・カンパニー(以下「ポスト社」)の株式を82万5千ドルで購入した。ポスト社は、オーナーのエドワード・ビール・マクレーン
『ワシントン・ポスト』の買収
メイヤーは報道機関に対する声明の中で、ポスト社の改善を誓い、独立して運営することを主張した。また、「いかなる個人・団体・組織の影響も受けずに」、自分自身の力でポスト社を買収したとも述べた[14]。この発言は、共和党員として有名なメイヤーがポスト社を手に入れたのは、『ワシントン・ポスト』に共和党の意見を代弁させるためだという噂を否定するためだった。