ユージン・ドゥーマン
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ユジーン・H・ドゥーマン(Eugene Hoffman Dooman?、1890年3月25日 - 1969年2月2日)は、駐日アメリカ合衆国大使館参事官で、第二次世界大戦前の二国間の重要な交渉の時期における人物[1][2]
背景

米国聖公会宣教師である両親の元に大阪で生まれたため[2][3]、ドゥーマンは母語として日本語を覚えた。彼の両親のアイザックとグレイスはイランオルーミーイェの出身で、そこでの主要なキリスト教徒はアッシリア人である。アイザックがニューヨーク神学校(General Theological Seminary)での研修を終えると、1888年に二人は来日した。アイザックが母国のガージャール朝ペルシアに戻れないことが分かったためである。ドゥーマンは1903年に帰米しニューヨークのTrinity Schoolで学び、1911年トリニティ・カレッジを卒業した。[4]
業績

ドゥーマンは1921年に国務省に入省し、ロジャーズ法によって新設された外交局の最初期の職員であった。1923年秋に、任地の日本で知り合ったエドワード・H・ワトソン艦長の招待客として、米国の駆逐艦デルファイに乗船していた際に、ホンダポイント遭難事件座礁事故も経験した。

ドゥーマンは、外交職務の大半を日本で過ごし、1931年から33年の二年間はロンドン、1933年から37年の五年間はワシントンD.C.で勤務した。ドゥーマンは1930年代後半における日本との決定的な交渉の時に、ジョセフ・グルー大使に次ぐ地位の大使館参事官で、度々グルーが不在時(一時帰国休暇を取った1939年を含め)の臨時代理大使としての役割を果たし、1941年の初め(2月14日)に米国大使館参事官として、大橋忠一外務次官に、フランクリン・ルーズベルトの最後通告を届けた。これは、日本がシンガポールを攻撃した場合、それは米国との戦争を意味するという警告であった。ドゥーマンは真珠湾攻撃の後、大使館の宿舎に拘束され、1942年に中立国スウェーデンの戦時交換船グリップスホルムで帰国した。

1945年にドゥーマンは大戦終結に向け、元上司のグルー国務長官代理と共に、ジェイムズ・クレメント・ダン国務次官補の特別補佐官として、日本の降伏を求める政策決定に関わった。ドゥーマンは、ポツダム宣言1945年原爆投下の前に出された警告)の起草者の一人である。

ドゥーマンは、日本に対する核兵器の使用に反対し、天皇制維持の強力な擁護者であった。ドゥーマンは、退職した戦後期には強力な反共主義者で、1957年にはウィリアム・ジェナー上院議員による赤狩りに参加し、共産主義者の疑いを懸けられたカナダの外交官で日本学者のハーバート・ノーマンと、アメリカの外交官のジョン・エマソン(後に駐日大使館で公使参事官となった)[5]に対して、強硬な非難を行った[6]
晩年

日本国政府は1960年勲二等旭日重光章を贈って長年の功績に報いた[1][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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