ユージン・スミス
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ユージン・スミス
ユージン・スミスと妻のアイリーン・美緒子・スミス(1974年)
本名William Eugene Smith
国籍 アメリカ合衆国
生年月日1918年12月30日
没年月日 (1978-10-15) 1978年10月15日(59歳没)
出身地 アメリカ合衆国 カンザス州ウィチタ
最終学歴ウィチタ・ノース高校[1]
活動時期1934年 - 1978年
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ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカ写真家1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。

ファーストネームは略されミドルネームのみで呼ばれることが多い。目次

1 経歴

1.1 戦争写真家として

1.2 ジャズ・ロフト・プロジェクト

1.3 水俣市へ


2 死後

2.1 アイリーン・アーカイブ

2.2 ユージン・スミス賞

2.3 映画『ジャズ・ロフト』

2.4 映画『MINAMATA-ミナマタ-』


3 表現方法

4 著名な写真

4.1 「入浴する智子と母」公開是非をめぐる議論

4.2 工場廃液の写真「排水管からたれながされる死」


5 影響を与えた写真家

6 著書

7 写真集・図録

8 その他

8.1 ドキュメンタリー


9 脚注

9.1 注釈

9.2 出典


10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

経歴

カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母がアメリカインディアンポタワトミ族の血筋もひく。父親のウィリアム・H・スミスは小麦商を営んでいた[2]

長ずるにつれ、ユージンは空を飛ぶこと、飛行機に魅了されていった。13歳のとき、飛行機の写真を買うためのお金を母親に求めたところ、母親は代わりに自分の持っているカメラを与え、地元の飛行場に行って自分で撮って来てごらんと促した。写真一筋となったユージンはカセドラル高校のスポーツイベントを撮る。この写真が地元『ウィチタ・プレス』の編集者のヴィジル・ケイの目にとまり、15歳のとき同誌に写真が採用された[2]。1934年、異常気象により中西部の農業は壊滅的な打撃を受けるが、干上がったアーカンザス川を撮った写真が『ニューヨーク・タイムズ』7月25日号に掲載された。

1936年4月、大恐慌で破産した父親が散弾銃自殺[2][3]。同年、ウィチタ・ノース高校を卒業。母親は息子のため、カソリック教会のつてを辿り、写真に関する奨学金を獲得。ユージンはノートルダム大学に入学するが、18歳のときに退学し[1]、ニューヨークに向かった。1937年9月、『ニューズウィーク』の仕事を始めた[3]
戦争写真家として

1943年9月、「Ziff Davis」の従軍記者となる。サイパン沖縄硫黄島などへ派遣され、『ライフ』などに写真を提供した[4]


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