ユージン・オニール
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Eugene O'Neill
ユージン・オニール

誕生Eugene Gladstone O'Neill
(1888-10-16) 1888年10月16日
アメリカ合衆国 ニューヨーク
死没1953年11月27日(1953-11-27)(65歳)
アメリカ合衆国 ボストン
職業劇作家
国籍 アメリカ合衆国
主な受賞歴ノーベル文学賞(1936)
ピューリッツアー賞(1920, 1922, 1928, 1957) 
署名
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1936年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:悲劇の独創的な概念を具現化する、彼の戯曲の力強さ、誠実的さ、深い感情に対して

ユージン・グラッドストーン・オニール(Eugene Gladstone O'Neill、1888年10月16日 - 1953年11月27日)は、アメリカ合衆国劇作家。アメリカの近代演劇を築いた劇作家として知られる。1936年ノーベル文学賞受賞。父親はアイルランド系で俳優のジェームズ・オニール(James O'Neill)。
生涯
誕生から放浪の青年期まで

ニューヨーク市のホテルで誕生する。父は有名舞台俳優で、母は女子修道院学校時代にはピアニスト志望だったこともある専業主婦。ユージン・オニールの家族はコネチカット州ニューロンドンに夏別荘を所有していた。オニールの最初の記憶は、夏の間そこで過ごしたことであった。

オニールは父親の旅公演について回って幼児期を過ごした。カトリック系の寄宿学校を出て、1906年プリンストン大学に入学するが勉強には興味がなく、もっぱら「読書・酒・女」の日々を過ごす。1907年、大学を中退。ニューヨークの通信販売の会社で働き始めるが直ぐに退職。その後、性急に結婚。金鉱発掘の助手、父親の劇団の俳優や助手、ニューロンドンの新聞記者など、さまざま職を転々とした。数年間にわたり船乗りとして働いたこともあり、その時期の経験は、オニールの戯曲中に題材として何度も取り上げられている。

1912年、結婚の破綻、ままならぬ自立などを抱えて、自己嫌悪に駆られ2月に自殺を図るが未遂。10月に離婚成立。軽度とはいえ当時は死にいたる病であった結核と診断され12月入院。6ヶ月ほど療養生活を送った。療養中に戯曲を書くことを思い立ち、処女作『クモの巣』(The Web)を執筆する。

退院後、1914年から1915年の間、ハーバード大学の演劇学教授ジョージ・ピアス・ベイカー(英語版)が主催する「47ワークショップ」に参加し、劇作を学んだ。このワークショップは、多数の劇作家・演出家・舞台美術家を世に送り出し、アメリカ演劇の発展に貢献した。
デビューからブロードウェイ進出まで

19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカ演劇は、ブロードウェイを中心とする商業主義・娯楽主義の支配下で停滞しており、世界的に注目されるような卓越した作品がほとんど生まれなかった。演劇人側から、この停滞を打破し芸術的改革をおこなおうとする動きはあった。そのアメリカ演劇が、ヨーロッパのようにリアリズムを作劇に取り入れて具体的に「近代化」するのは、劇作家ユージン・オニールの登場と時期を同じくする。

1916年、マサチューセッツ州プロビンスタウンに拠点を置く小劇場劇団を、オニールは自作の戯曲を持って訪れた。劇団員による朗読の後、オニールは熱烈に迎え入れられ、その戯曲を上演することになった。これが、演劇の改革を志していた劇団の一つプロビンスタウン・プレイヤーズ(英語版)とオニールの出会いである。

その時朗読された作品が、オニールのデビュー作『カーディフを指して東へ』(Bound East for Cardiff)である。オニール本人もこの劇に出演した。英国のカーディフ港に向かう貨物船の船倉を舞台とする一幕劇。


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