ユーゴスラビア紛争
十日間戦争 - クロアチア紛争 - ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 - コソボ紛争 - マケドニア紛争
ユーゴスラビア紛争(ユーゴスラビアふんそう)は、ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった内戦である。1991年から2000年まで主要な紛争が継続した。
目次
1 経緯
2 内戦一覧
3 多様性を内包した国家
4 ユーゴスラビア紛争を描いた作品
4.1 小説
4.2 映画
4.3 漫画
5 関連項目
6 参考文献
7 外部リンク
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経緯ユーゴスラビアの地図。黄色がスロベニア、青がクロアチア、緑と濃緑がボスニア・ヘルツェゴビナ(緑はスルプスカ共和国、濃緑はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)、ピンクと赤がセルビア(ピンクはヴォイヴォディナ自治州)、濃赤がコソボ、灰色がモンテネグロ、濃水色がマケドニア共和国である。被害にあった建物
多民族国家のユーゴスラビアは第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。この国は後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家(または一人のチトー)」といわれるほどの多様性を内包していた(後述)。
戦後の世界ではアメリカ合衆国を中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が対立する冷戦がはじまる。ユーゴはチトーが共産主義者であり東側陣営に属するが、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国とは違い、ソ連の衛星国では無い独自の社会主義国家としての地位を保っていた。
1980年にチトーが後継者を定めないまま死去し、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に代表される東欧民主化で東側世界に民主化が広がり共産主義が否定されると、ユーゴにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことを決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。また、各国ではスロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア)やフラニョ・トゥジマン(クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めていた。ユーゴの中心・セルビア共和国では大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチが大統領となり、アルバニア系住民の多いコソボ社会主義自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して1990年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となる。