ユーゴスラビア
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この項目では、ユーゴスラビア全体について説明しています。ユーゴスラビアの国家の一覧については「ユーゴスラビア (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年6月)
ユーゴスラビアの変遷

ユーゴスラビア(セルビア・クロアチア語: Jugoslavija/?угослави?а)は、かつて南東ヨーロッパバルカン半島地域に存在した、南スラヴ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。

国名の「ユーゴスラビア」は「南スラヴ人の国」であり[1]、こう名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年6月にモンテネグロの独立で解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。戦前は全人口の4分の3が農民であったが、1945年の第二次世界大戦後はチトーによって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、1948年にソ連率いるコミンフォルムから追放されるまで、ソ連型の社会主義建設に専念した。追放された後は労働者自主管理型の分権的な社会主義を生み出し、外交政策の非同盟主義への転換とともに「(ユーゴスラビア)独自の社会主義」の二本柱となった[1]。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する(#国名参照)。

なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。

国家の多様性から『七つの国境[注釈 1]、六つの共和国[注釈 2]、五つの民族[注釈 3]、四つの言語[注釈 4]、三つの宗教[注釈 5]、二つの文字[注釈 6]、一つの国家』と形容される[1][2][3]。詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照
概要

首都はベオグラード1918年セルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年ユーゴスラビア王国に改名されたが、1941年にナチス・ドイツを中心とする枢軸国の侵攻によって全土を制圧され、以後枢軸国各国による分割占領や傀儡政権を介した間接統治が実施された。その間はヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンを中心とする抵抗運動が続き、枢軸国が敗戦した1945年からはパルチザンが設置したユーゴスラビア民主連邦が正式なユーゴスラビア政府となり社会主義体制が確立され、ユーゴスラビア民主連邦はユーゴスラビア連邦人民共和国に改称された[注釈 7]。そして1963年、ユーゴスラビア連邦人民共和国はユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。

しかし、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1980年代後半の不況によって各構成国による自治・独立要求が高まり、1991年から2001年まで続いたユーゴスラビア紛争により解体された。その後も連邦に留まったセルビア共和国モンテネグロ共和国により1992年ユーゴスラビア連邦共和国が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。この国も2006年にモンテネグロが独立を宣言、その後間もなくセルビアも独立を宣言し国家連合は解消、完全消滅となった。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアモンテネグロ北マケドニアとなっている。また、セルビア国内の自治州であったコソボ2008年にセルビアからの独立を宣言した。コソボを承認している国は2015年8月の時点で国連加盟193か国のうち110か国であり[4]、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認していない国々からは依然コソボはセルビアの自治州と見なされている。

バルカン半島に位置し、北西にイタリアオーストリア、北東にハンガリー、東にルーマニアブルガリア、南にギリシア、南西にアルバニアと国境を接し、西ではアドリア海に面していた。
国名

ユーゴスラビアはスロベニア語、およびセルビア・クロアチア語ラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記で?УГОСЛАВИ?А(スロベニア語: [ju???sla??ija]、セルビア・クロアチア語: [ju??sla??ija, ju?osla?ija])。

日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィアである。しばしばユーゴと略される。過去にはユーゴースラヴィアという表記が使われていた[5]

ユーゴスラビアは「南スラヴ人の土地」を意味し、南スラヴ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来している。国家の名称としては、1918年のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立の頃より通称として用いられていたが、アレクサンダル1世統治時代の1929年に、これを正式な国名としてユーゴスラビア王国と改称された。
国名の変遷

1918年 - セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国

1929年 - ユーゴスラビア王国

1943年 - ユーゴスラビア民主連邦

1946年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国

1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

1992年 - ユーゴスラビア連邦共和国

2003年2月5日 - セルビア・モンテネグロ独立、ユーゴスラビアの国名が消滅。

歴史
王国の成立詳細は「ユーゴスラビア王国」を参照ユーゴスラビア王国の国旗

第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビアモンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチアスロベニアを合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。

1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチアスロベニアオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改称)」が成立した。

憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年1月6日には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。国王アレクサンダル1世

国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。

1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユ暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。

アレクサンダル暗殺後のユーゴスラビア政府はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認め、クロアチア自治州(セルビア・クロアチア語版、英語版)を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。
第二次世界大戦

ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。

同年4月5日、ユーゴスラビアはソ連との間で友好不可侵協定に調印した[6]が、翌4月6日朝にはドイツ国防軍イタリア王国ハンガリーブルガリア等の同盟国と共にユーゴスラビア侵攻を開始[7]4月17日、ユーゴスラビアはドイツ軍に無条件降伏の申し入れを行い、全戦線にわたり戦闘を停止した[8]

ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャを新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。


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