ユーゴスラビア共産主義者同盟
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ユーゴスラビア政党ユーゴスラビア共産主義者同盟
Савез комуниста ?угослави?е
Savez komunista Jugoslavije
党旗
成立年月日1919年4月20日[1]
解散年月日1990年1月22日
解散理由各共和国の分裂
後継政党セルビア社会党[1]
本部所在地 ユーゴスラビア
セルビア共和国 ベオグラード
政治的思想・立場左派
自主管理社会主義[2]
左翼ナショナリズム
チトー主義
シンボル
国際組織コミンテルン[2]
コミンフォルム[2]
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ユーゴスラビア共産主義者同盟(ユーゴスラビアきょうさんしゅぎしゃどうめい、略称:SKJ[1])は、社会主義政権時代のユーゴスラビアにおける一党独裁政党共産主義政党。
党名

上からセルボクロアチア語キリル文字)、セルボクロアチア語(ラテン文字)、英語

1919年 - 1920年 ユーゴスラビア社会主義労働党-共産主義派

Соци?алистичка радничка парти?а ?угослави?е (комуниста)

Socijalisti?ka radni?ka partija Jugoslavije (komunista)

Socialist Labor Party of Yugoslavia (Communist)


1920年 - 1952年 ユーゴスラビア共産党

Комунистичка парти?а ?угослави?е

Komunisti?ka partija Jugoslavije

Communist Party of Yugoslavia


1952年 - 1990年 ユーゴスラビア共産主義者同盟

Савез комуниста ?угослави?е

Savez komunista Jugoslavije

League of Communists of Yugoslavia


党史
前身政党の結成と非合法化

第一次世界大戦後、セルブ=クロアート=スロベーヌ王国(セルビア人=クロアチア人=スロベニア人王国)が建国され、1929年にはユーゴスラビア王国と改称した。そんな中ロシアでの十月革命の影響を受け、第一次大戦前まで分裂していたセルビアなど国家構成体内の社会民主主義政党が結束し、1919年にユーゴスラビア社会主義労働党-共産主義派(SRPJ-k)を創設。共産主義インターナショナルに参加するかたわら、初のセルビア議会選挙で第3党に躍進し、ベオグラード市長選に当選するなど、着実に勢力を固め、支持を広げていった。結党の1年後に当たる1920年、SRPJ-kはユーゴスラビア共産党(KPJ)と改称した。

王国内の諸政党と違い、KPJはストライキやデモによる大衆運動で支持を拡大し、その中で共産主義革命を成就する道を歩む政策をとっていた。そんなKPJの転機となったのは、ボスニアトゥズラ近郊で起こった鉱山労働者のストライキである。このストライキで結果的に警官1人と鉱山労働者4人が死亡したことに対し、政府はKPJをストライキの首謀組織として一時的な非合法化を通告。また1921年には恒久的に非合法化された。
地下活動

非合法化により地下活動を余儀なくされたKPJだが、1926年オーストリアウィーン1928年にはドイツドレスデンで秘密会を招集するなど依然として一定の勢力は保っていた。しかし階級闘争において重要な役割を果たしていた党員は、既に勢力を衰退させていた。さらに1929年に独裁的なアレクサンダル1世が国王に即位し、全ての政党が非合法化されると、KPJに対する弾圧も最高潮に達した。弾圧を逃れたKPJ党員はソ連へと亡命するも、今度はスターリンソ連共産党指導者)による大粛清の標的となった。こうしてKPJは、ユーゴスラビア全体における共産主義者のまとめ役としての立場を失い、崩壊の危機にさらされた。

そんな中現れたのが、1937年よりKPJ書記長に就任し、党の指導権を握ったチトーである。彼はコミンテルンからの指導を受け、KPJの活動を再び活発化させるとともに、反ファシズム闘争への準備を進めていく。
反ファシズム闘争と祖国解放

アレクサンダル1世暗殺後、ユーゴスラビアではパヴレ・カラジョルジェヴィチによる摂政政治が続いていた。ユーゴスラビア政府はアレクサンダル1世死去後、親ドイツ政策をとり、1941年には日独伊三国同盟に加盟したが、国王ペータル2世の支持を受けた反ドイツ派がクーデターで新政府を樹立、中立を宣言した。その10日後、ヒトラー率いるナチス・ドイツの侵攻(ユーゴスラビア侵攻)に屈服し、国王ペータル2世と政府高官は亡命、ユーゴスラビア軍は枢軸国側に降伏した。

これによりクロアチアクロアチア独立国としてドイツの傀儡国家となり、その他のユーゴスラビア領土もドイツ、イタリアハンガリーブルガリアといった枢軸国が分割占領した。

これらに対し、チトーなど共産主義者たちは国王支持派などを取り込んでヨーロッパ最大のパルチザン勢力を結成し、イギリスアメリカの支援を得て祖国解放闘争を行った。連合国側ははじめ国王支持を表明していたが、1944年からはチトー率いるパルチザン勢力への支援に切り替えた。1945年、パルチザン勢力は自力でユーゴスラビアを解放することに成功した。これは他の東ヨーロッパ諸国と違い、ソ連軍の支援を受けずに達成されたものであることから、その後のユーゴスラビアとソ連の関係に大きく影響することとなる。
政権獲得と自主管理社会主義詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照

1945年11月に憲法制定議会選挙が行なわれ、民主党などがボイコットを表明する中、KPJを中心とする人民戦線が91%の得票を獲得、これを受けて新議会は王政の廃止とユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称)の成立を宣言し、チトーが首相兼国防相となった。

1948年、KPJは第5回党大会を開催し、ソ連追従政策の取り消しと自主管理社会主義と呼ばれる独自の路線を採択した。これが東ヨーロッパ諸国を衛星国にしようとするスターリンの逆鱗に触れ、同年KPJはコミンフォルムから追放された。翌1949年には、ユーゴスラビアはコメコンからも除名されている。


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